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Channel: 私的な考古学
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連休の後半

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この5月の連休後半は、庭の草取りと柵づくりに専念しました。3月・4月は、4本の原稿に追われてきたため手が回らなかったので、雑草は元気よく生え、薔薇にもすでに黒星病が発生しアブラムシもつき放題。東の庭はまさしくインセクトピア(映画『アンツ』より)の状態でしたから、彼ら細菌や虫たちにとって恐るべき災害をもたらした、という次第です。

期待するでもなく期待していた娘の帰省の話はいっこうにないので、携帯に電話を入れてみれば「なに?元気でいるよ。部活で忙しくて帰れないから。これからインカ展覧に行くの。じゃあね!(ガチャン…携帯を切る音)」。ということでした。確かに私自身も例年は忙しく、長野の母の顔をみに帰るでもなく原稿に追われていましたから、親の心子知らずとばかりはいえません。当の母も太極拳の指導にあちこち走り回っているようで、なによりです。やむなく妻と庭仕事となりました。

南の庭で今年作ったのは池の柵。一昨年の秋に出雲大社(秦野)の縁日で掬ってきたといって、娘が私の誕生日プレゼントにくれたのは小さな鯉6尾でした。ところがその後1年間のうちに1匹・また1匹と姿を消し、その理由がわからなかったのですが、妻の目撃によって、猫が原因であることが突き止められたのです。夜半に池の縁に陣取って魚獲りをするのだそうです。

このエリアはポチの侵入を禁止していたこともあり、ポチの老齢化によって猫に興味関心を示さなくなったこともあり、南の庭やポチの餌箱も猫ピアになったままだったようです。うかつでした。

最後に残ったコメット1尾と鯉1尾だけはなんとか救えないかと思っていましたが、一昨日、とうとうお気に入りだった4歳のコメットも姿を消してしまったのです。そこでこのような柵をしつらえることと相成りました。夏にはポチが朝の涼をとるため南の庭を開放しますが、それまでの暫定的措置です。

4日午後からは二人で海老名へ出かけ、映画鑑賞。『舟を編む』を楽しみました。ストーリーは12年かけて作り上げる辞書の編纂事業。後味も良くなかなかです。

こうして今年の連休は終わりです。とはいえ、『西相模考古』の編集担当の立花実さんには今回の原稿で大変ご迷惑をおかけし、図面のサイズや解像度の問題でお手間を取らせています。いつものこととはいえ、わがままを申しあげるばかりで申し訳ありません。

本日夕方には大西寿男君が来てくれるとのことで、昨晩は鹿肉を燻製に仕立て、スモークドローストビーフを作りました。編集に忙殺されているはずの立花さんには誠に申し訳なく思いつつ、我が家の周辺には、まったりとした春の時間が流れていました。

沼津市・高尾山古墳の築造企画

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今回ご紹介するのは、この5月下旬に刊行される予定の『西相模考古』次号(2013年度版)に掲載していただくことになった私の考察の一部です。静岡県沼津市高尾山古墳(調査時の名称は「辻畑古墳」)の調査成果をめぐる特集号として本誌は編集されており、その一環として、私は同古墳の墳丘築造企画を論じました。ごく初期の前方後方墳(墳丘長60m)として広く注目されている古墳です。

同報告書(池谷ほか2012)では、寺沢薫氏がこの古墳の墳丘築造企画について論じていらっしゃいます。しかしながら提示された所見や考察の結果には納得できず、対案を示そうと試みた結果です。一目瞭然、方眼を重ねてみればほとんどの問題は解決できるものと思います。

この方眼を重ねてみるという作業は、沼澤豊氏の研究成果(沼澤2005a,bほか)に学んだ結果です。沼澤氏は、古墳の造営が12区分された方格地割を基本として設計・施工された可能性を指摘し、巨大前方後円墳から極小規模な円墳・方墳にいたるまで、日本列島各地の事例を広く点検していらっしゃいます。この沼澤氏のアイデアをお借りして、高尾山古墳の平面図に重ねたものが今回アップした図面です。

全体の枠組は縦24単位、横15単位。墳丘部分は縦軸において後方部10単位、前方部10単位の同率、横軸では後方部11単位、くびれ部3単位、前方部7単位となりました。中心軸線が7.5単位のところにきていますので、墳丘部については全体の枠組にもちいられた単位をさらに1/2にした細分単位(後方部長・前方部長各20単位、後方部幅22単位、くびれ部幅6単位、前方部幅14単位)が採用されたと考えられます。

注意していただきたいのは、周溝の墳丘側下端に外郭線を想定するのではなく、肩に外郭線を想定していることです。報告書の記載にも、旧地表面(つまり周溝の墳丘側の肩に該当する場所)で地割りの基本枠が設けられた可能性への言及がありますから、それにしたがっているのです。いいかえると本古墳の築造企画を考察する際には、旧地表面の標高や位置の推計が非常に重要な要件となるのです。

その意味では、今回アップする図面にも、まだ不十分さが残ります。今後、沼津市教育委員会にもご協力をいただき、墳丘や周溝の各部において、想定される旧地表面の位置だしをおこなった後に、再度方眼を重ね直す必要があるでしょう。

そうはいっても、ここまで明確かつ疑問の余地の少ない作業結果も珍しいのではないでしょうか。

ちなみに私が重ねた方眼の一マスは3.23mです。ここから基準尺度を簡単に推計してみましょう。まず12進法に則して推計すれば、26.9cmを1尺とした場合の2歩となります。この尺度ともっとも近似した復元基準尺は、じつは新井宏氏が提唱する「古韓尺」(26.8cm)なのです(新井1992・2004・2011)。現状の墳丘築造企画論において、前方後円墳に用いられた基準尺度の最有力候補と目されている「漢尺」(23cm±1cm)や、それと一部重複する「古墳尺」(22.85cm)、あるいは魏・晋尺(24.0cm)などとは整合しないようで、これら古代中国側の公定尺は今回の候補から除外されることになります。

次に10進法に則した推計尺度を想定することが可能であれば、寺沢氏が推計する「魯班尺」(31.81cm)があり、それを適用すると10尺(3.181m)となります。「古韓尺」の2歩(3.216m)と「魯班尺」の10尺(仮に5尺1歩とすれば2歩)では3.5cmの差しかありませんので、新井説が最有力視されることも間違いありませんが、寺沢説も依然として適合的だといえるでしょう。10進法の適用が可能かどうかについてはなお検討の余地があるかと思いますが、今示した基準尺度の問題を詰めるためにも、先に述べた地割ラインの綿密な推計作業が不可欠だといえるでしょう。

今回の作業結果は、私自身にとっても少し意外でしたが、これまでの墳丘築造企画論に重大な知見をもたらします(北條2011参照)。今後の展開は、高尾山古墳の事例を基礎にした再整理ということになるはずでず。今回の論文では、高度な類似性を示す各地の事例のなかから、滋賀県富波古墳例(長井ほか1986)と、山梨県甲斐銚子塚古墳例(森原・森屋2005)を紹介させていただきました。前者は前方後方墳ですから、当然といえば当然なのですが、後者は前方後円墳、それも関東甲信越地域における前期後半の最大規模墳です。前方後円墳にも適用可能な枠組みであることがミソだと思います。連休中にもかかわらず作業を手伝ってくれた4年性のIノ瀬君に感謝です。

ともかく、トラの縦縞表紙でおなじみの『西相模考古』次号は、今月の下旬に駒沢大学で開催される日本考古学協会大会の図書交換でも販売される予定で、目下、立花実さんが編集作業を一手に引き受けてくださっています。私のほかにも関東在住の蒼々たるメンバーが高尾山古墳の重要性を論じていますので、興味のある方はご購入を検討していただければ、と思います。

家事や庭いじりの傍ら、私はこの墳丘築造企画論関連の作業にも熱中せざるをえなくなってしまいました。放置されつつあるD51づくりに再び戻れるのは、もう少し先の話になりそうです。

引用文献

新井宏1992『まぼろしの古代尺―高麗尺はなかったー』吉川弘文館
新井宏2004「古墳築造企画と代制・結負制の基準尺度」『考古学雑誌』第88巻第3号
新井宏2011「『出雲風土記』の里程と宍道郷三石記事に現れた『古韓尺』」」『古代文化研究』19号
池谷信之ほか2012『高尾山古墳発掘調査報告書(沼津市文化財調査報告書第104集)』沼津市教育委員会
長井秀之ほか1986『富波遺跡発掘調査概要』滋賀県野洲町教育委員会
沼澤豊2005a「前方後円墳の墳丘規格に関する研究(上)」『考古学雑誌』第89巻第2号
沼澤豊2005b「前方後円墳の墳丘規格に関する研究(中)」『考古学雑誌』第89巻第3号
北條芳隆2011「墳丘築造企画論の現状」『古墳時代の考古学(3)墳墓構造と葬送祭祀』同成社
森原明廣・森屋文子2005『国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳―史跡整備事業に伴う平成16年度発掘調査概要報告書(山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第228集)』山梨県教育委員会

校正者大西寿男君と語る

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昨日7日の夕刻、大学の研究室を大西寿男君が訪ねてくれました。近藤義郎先生を偲ぶ会以来約3年ぶりの再会となります。私より3年下の学年として岡大考古学に入学し、卒業後は出版業界にあって、現在は校正兼個人出版業「ぼっと舎」を設立し活躍されています。

楯築弥生墳丘墓の第6次調査などを通じて意気投合したことが縁となっての付き合いです。彼の前著『校正のこころ』については、このブログでも以前に紹介したことがあります。

      「ぼっと舎」HP : http://www.bot-sha.com/     
       ブログ「校正感覚」:http://koseikankaku.blog.fc2.com/ 

妻も私も、じつは大西君の大ファンですので、来訪を楽しみにしておりました。妻にとっては18年ぶりの再会となるでしょうか。

今回は2冊目の校正に関する著作『校正のレッスン―活字との対話のために』(出版メディアパル)と、彼の処女作となる考古学ミステリー小説第1話が掲載された文芸誌『Witchenkare』4号をプレゼントしてくれました。

出版業界全体の低迷の影響もあってか、校正者の仕事というのも最近は減少気味だそうで、なにかと大変なようです。しかしそのいっぽうでは電子出版絡みの校正の仕事もあると聞きました。フォントの映り具合の点検(要するに読み手の側にたった場合の見栄えや読みやすさ読みにくさのチェック)などもしているようです。この点については実際に映し出して見せてもらい、こうも違うのかと納得。さらに大手前大学でも「校正講座」を非常勤で受け持ってもいるとのことで、秋には神戸の自宅からの出勤となるとのこと。けっこう忙しそうでした。

昨晩のディナーは、彼が持参してくれたイタリアの美味しい赤ワインに、私の作った鹿肉の燻製や燻煙したローストビーフにローストポークなどを合わせた手料理。大いに食い、呑みました(こうした肉料理、忘年会で学生に出すと瞬殺で皿が空になるので、落ちついて味わえたのは昨晩が初めてでした。自画自賛ながら美味でした)。

印象的だった話題のひとつは、なぜ日本では依然として右綴じ「縦書き明朝体」が安定的に再生産されているか、についてでした。大西君いわく、それはコミック界が磐石で、強固に「縦書き明朝体(漢字のみゴチック体)を貫いているからだというのです。コミック本を手に取る子供たちがこの体裁に慣れ親しんでくれているおかげで、当面は安泰かもしれない、とのことでした。確かに学校の教科書などとは比べものにならないほど強い影響力を発揮しますから、なるほど、と真に納得させられる話でした。

かくして、ことばを通じた表現の世界に体ごと浸っている大西君ならでは、の興味深い話題が満載で、夫婦共々、心から楽しみました。もちろん私の悪名高い?近著「東の山と西の古墳」への、ことばのプロからみたコメントもいただき、励まされました。

ただし連休中も仕事を続けてきたようで睡眠不足だったせいか、深夜を待たずに大西君は椅子にもたれたまま寝入ってしまったため、その後は夫婦揃って彼の近著を交互に読むことになりました。

今後も変わらぬ活躍を祈ります。

5月9日、記念日

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この日は私たち夫婦の結婚記念日です。40代前半の頃は二人とも忘れてしまうことが多く、数日たってから、どちらかが(大抵は妻の方が)気がついて「あー今年も忘れた!」となるのが当たり前でした。

しかし、最近はなぜか数日前から二人とも意識の上に登るようになり、どちらからともなく気にするようになり、特別な日というでもなく祝杯を上げることが多くなりました。これも歳のせいでしょうか。

今年はレストランでも予約して妻を駅にまで出迎えて、という予定でしたが、外食だと私が呑めないので、結局は私の手料理で22回目の結婚記念日を祝おう、ということになりました。

どうということのない料理ですが、昨年末に学生が持ってきてくれたキャンティ・クラシコを開け、自宅で祝杯をあげました。

鈴木コレクションの整理始動

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本学に寄贈された古代エジプト・オリエント関連、鈴木コレクションの整理作業が、今年度から山花京子先生の指揮のもと、始動しました。考古学専攻生とアジア文明学科生のコラボPJとなります。

この整理作業、我が大学の学生諸君が主体ですが、早稲田大学からの応援も受けることになり、今後毎週水曜日夕方には、多くの学生諸君が集ってくれることになります。去る5月8日には近藤二郎先生や馬場匡浩さんを始め、M2になったT野内君、それに2名の早稲田大学応援隊がかけつけてくださいました。

この日はちょうどアジア文明学科主催の山花先生歓迎会と重なったこともあり、彼女が中座した以後は私が代役として参加することに。前半はガラス資料の注記を手伝いましたが、後半はもっぱら接待役に徹しました。

この日の後半は、注記作業をおこなっている14号館406教室を離れ、地下の収蔵庫で、今後整理することになるであろうところのあまたの遺物を見ていただくことになりました。

私は、といえば、古代エジプト学の権威おふたりを相手に、相変わらずの耳学問。そんな風にこの資料は見ると面白いんだ!なるほど!といった調子で、近藤先生や馬場さんの解説をお聞きしながらひとり納得しておりました。

せっかくなので、今後どちらかの先生がお越しの際は、整理作業の合間を縫って現物を目の前にした「ちょっとした豆知識講座」でもやっていただければ、皆のモーティベーションも高まるだろうな、と思いました。

今後、早稲田大学からも応援をいただき、古代エジプト関連資料の整理が着実に進めばなによりです。

『古墳時代の考古学』第4巻校了

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昨日の雨は上がったものの、映えない曇天の朝でした。東の庭では薔薇のバタースコッチが満開となり、春も本番。ですが黒星病も昨年同様蔓延しており、今年は階段下の“禅”に元気がありません。悩ましい日々です。

本日5月13日の午後は、飯田橋にある同成社に行ってきました。『古墳時代の考古学』第4巻(副葬品の型式と編年)の最終的な出張校正です。会議室を使わせていただき、全頁に目を通させて頂きました。副葬品の型式学と編年学を取り扱う本巻ですが、最新の研究動向を反映させたものにしたいと多くの方が力を入れて執筆してくださったせいもあり、真に充実した内容となったように思います。数名の方が作成された編年表は見開きとなり、相当なデータ量が詰め込まれた観もあります。

執筆者の面々は、当然ですが新進気鋭の古墳時代研究者。30代と40代がほとんどで、さすがに脂がのっているな、と感心させられることしきり。ちなみに執筆者の最高齢は副葬品の配置を取り扱ってくださった今尾文昭さん、そして私へと続きますが、二人だけが50代。そうはいっても年齢は関係ないこととしましょう。

私自身も、この歳になってO.モンテリウスの著作を改めて学び直し、ちょっとした(重大な)発見を総論で紹介することにもなりました。若返りのエネルギーを頂いたような気もしています。

本日夕方には印刷所に入り、23日には完成予定だと伺いました。

全体で260頁を越えようかというボリュームに膨らみましたが、値段は他巻と同一の6.000円(税別)で抑えてくださるようです。ただし来週末から始まる日本考古学協会の総会会場では、5.000円で販売されるとのこと。

著者割引で購入するよりも低価格だとのことですので、古墳時代の研究に興味のある方々にお勧めします。なお校正刷り(3校)の束の横に『発掘調査のてびき』のチラシが写り込んでいますが、こちらも同成社から発売になるからといって、佐藤さんから直前に手渡されたものです。

また学生諸君には次の点をアナウンスいたします。本巻については、興味関心のあるテーマの部分だけをコピーすることで凌ぐ、という手段は、あまりお勧めできません。型式学と編年学ですから、諸論考は相互に深く関連する構成にならざるをえず、実際にそうなっているからです。

どうぞ図書販売会場で、実際に現物を手にとってパラパラ見て下さい。

ようするに本巻については、樋口一葉さん1枚に頑張ってもらい、購入してしまうほうが絶対に後々後悔しないであろうことを保証いたします。

大阪アースダイバー

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表題は人類学者中沢新一氏の著書名です。私はこの著作の存在を熊本大学の杉井健君から教えられました。「Hさんの主張とまったく同じ事が書かれているので….」との注釈付きで、です。

アマゾンで購入し面白く読みましたし、なるほど、と納得させられる点が多々ありました。おそらく論証の開示が不十分であるとか時空を越えた連想やアナロジーが接着剤になっているとか、そういった点を捉えて「学術的な著作ではない」との批判を受ける作品なのかもしれません。

しかし原大阪の軸線が東西を基軸に据えたもの(ディオニソス軸)であり、難波宮から南に延びる南北軸(アポロン軸)が後から被るかたちとなって東西・南北両軸線が交差し、それが大阪という街の基盤をなした、との把握にはなんら違和感がありません。

関連する当該箇所を引用してみると「東西に走るこの見えない軸線は、生駒山が発する磁力のような不思議な力から、生み出されている。古代人の感覚を生かして言うと、それは『死の磁力』にほかならない。生駒山から出ているこの死の磁力が、あまりに強大であるために、上町台地の北端を出た『生の軸線』(アポロン軸―筆者挿入)は、羽曳野丘陵あたりで、大きく生駒山に吸い寄せられるように、湾曲してしまう」(中沢2012, 同書30頁)とあります。

中沢氏のいう「死の磁力」の源泉が生駒山にあるという見解の背景には、大阪からみれば生駒山が太陽の昇る東の山並にあたるという事実、および太陽の運行は死と再生の繰り返しを人々の心に深く刻みつける天体現象であって、山の稜線から差し込む朝日は死の世界から人々の前に再登場するエネルギーでもあるという理解、さらには弥生時代後期以降(とりわけ吉備や讃岐、北近畿などで)、人々の造墓地は集落の近隣を離れ、ときに山中に置かれることになったという「山中他界」説との関連、という三つの命題が介在しています。

だから生駒山は「死の磁力」の源泉であるというのです。風水の思想を当てはめて表現すれば、ここでの「磁力」は「気」である、ともいえるでしょう。大和川に沿って上流の奈良盆地側から流れ出てくる、死者たち由来のエネルギーです。

ただし、このディオニソス軸が「羽曳野丘陵あたりで、大きく生駒山に吸い寄せられるように、湾曲してしまう」という中沢氏の見解には賛同できません。湾曲するという理解は、古市古墳群の立地を指してのことですが、私の「東の山と西の古墳」で開示した主張は、古市古墳群と百舌古墳群が東西に並列する関係を再確認し、東西軸線の西端は伝履中陵の後円部中心点であるという、いわゆるGIS考古学的な見地から導かれる事実関係だからです。

したがってアポロン軸とディオニソス軸の交差は、百舌鳥古墳群中にあると理解することがより妥当だと思います。

さらに生駒山が「死の磁力」の源泉であるとの理解にも再検討が必要だと考えます。古市古墳群中から東を見れば、たしかに生駒山しか眼に入らないのですが、さらに西に位置する百舌鳥古墳群中から東を見れば、生駒山は前景となり、その背後に聳える龍王山の山並が連なって映り込んでくるからです。2段目の図は、伝仁徳陵後円部中心から真東を見た景観です(カシミール3D使用)。

したがって、生駒山は大阪に居住する人々にとって身近な東の山並であり、「山中他界」説をとれば、たしかに死の磁力の一翼を担う存在ではあるものの、背後に龍王山を控えたそれ、なのだと理解するほうが妥当ではないか、そのように考えるものです。

私なりの表現に置き換えれば「大和原風景」に源泉を発する、その大阪版だといえるでしょう。大阪平野と奈良盆地の地勢的関係は同形であるとの、岸俊男先生の指摘にあるとおりです。つまり近つ飛鳥の存在が典型的に物語るとおり、奈良盆地になぞらえて大阪側の地形を理解し、再現しようとする古代人にもみられた志向性なのです。

そしてその意味でなら、生駒山は「近つ鳥見山」(鳥見山=龍王山の主峰のひとつで、山の名称は『日本書紀』神武紀に皇祖の住み処ないし皇祖例との交信可能な場として記載された。定説は現在の桜井市にある鳥見山だが、本居宣長は「榛原」付近を想定。私も本居説を支持)と観念されたのかもしれません。

ともかく、中沢新一氏の著作には大いに勇気づけられました。もちろん、アマゾンの読者コメント欄には「学術書として読むと裏切られる」とか「いわゆるトンデモ系」だとの手厳しい書評が寄せられています。その意味では私の主張自体も含め、トンデモ系に置かれてしまう可能性は充分に認めます。

ただし「北枕の忌避」に象徴されるとおり、私たちの日常生活にあまりにも身近で、ときに因習と処断されたり、迷信などと一蹴されたりという処遇を被ることの多い方位観念の世界に歴史性のメスを入れるという作業は、新しい研究の方向性のひとつであるに違いないとも考えます。

さらに言い添えますと、前方後円墳がもつ政治性は、そこに生きた一般民衆にアピールできてこそのそれだと考えるのです。仮に方位観にまつわる伝統的因習や迷信が人々の心を支配していたのであれば、それを丸ごと掴みつつ象徴的構造物を現出させることこそが、支配の正当性のなによりの主張であり演出ではなかったか。とも思うのです。悪評にさらされている拙著は、そのようなささやかな提言でもありました。

本書を紹介してくれた杉井君に感謝します。それにつけてもアースダイバーという命名の妙には唸らされてしまいました。

引用文献

中沢新一2012.10『大阪アースダイバー』講談社

西相模考古22号の予告

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東の庭の薔薇も咲き誇り、ようやく春も本番かと思いきや、本日夕方、丹沢山麓は猛烈な風と雨に見舞われました。この記事を書いている午後11時過ぎになっても雨は止む気配がなく、外には一歩も出る気がしません。

さて表題のとおり、わが西相模考古学会誌の宣伝です。さきほど西川修一さんから送られてきたpdfファイルをカットして貼り付けます。編集はもちろん立花実さんです。「わが」とはいっても、じつのところ私はほとんど幽霊会員ですが、こういう特集記事となると俄然やる気になってしまうという、いわゆる嫌みで目立ちたがり屋の役回りです。

前回の関連記事でもお伝えしたとおり、【企画論集】「東日本の古墳出現期をめぐってー出現期古墳見学会の成果と展望 沼津市高尾山古墳を中心にー」には、24名の研究者(西川さんと私を含む)が小文を寄せてくれています。

西川さんがおっしゃるとおり、そして業界人の方々であればすぐにおわかりのとおり、たしかに蒼々たるメンバーが揃っていることに驚かされました。前回の記事では関東在住の…と記述したような記憶もありますが、完成した目次をみれば、関西や北陸などからの寄稿もありますので、全国的展開になっているのです。この点にも驚かされました。

もちろん内容に関し事前の摺り合わせなど一切ないものですから、たとえば私の示す見解と、真逆の見解をどなたかが書いていらっしゃる、ということも充分に予測されます。ようするに読者にとってみれば、誰の記述がもっとも妥当か、だれのはその逆か、というようなジャッジ観を味わえる特集になっているかもしれません。

本号の中核となる【論考】は、会長の岡本孝之さんの「江戸時代の橋場型石斧」と、斎藤あや・田村朋美ご両名の「小田部古墳出土のガラス玉の再検討」の2本建てです。さらにお馴染みの方も多いと思われる【おまけ】には、伊丹さんの「東北生活2012」と、立花さんの「編集秘話」がしっかりラインナップされています。

雑誌の値段を聞くのを忘れていましたが、本文230頁超で2.000円です(値段について、昨日の記事を訂正いたします。pdfを確認したら、しっかり付いていました。ここに訂正いたします)。

来週末から始まる日本考古学協会の総会会場で発売されます。内容的にも分量的にもお買い得感が満載です。高尾山古墳に興味関心のある方、または論考に興味を抱く方々、さらには常連の方々も、どうぞご購入のほどをお願いします。

5月中旬の最終金曜日

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もう5月の中旬も終わろうとしています。大学でお会いする先生方からは、口々に「活き活きしていますね」と挨拶をされる毎日。新主任の松本建速さんは、新たな境遇に戸惑いつつも頑張っていらっしゃるよう。

そういえば先日、近藤英夫先生も「松本さんは4月から変わったね。会議でも松本節が出なくなって最近は主任らしくなったようだよ」との仰せでした。当のご本人は、といえば、日に日に表情が冴えなくなり気味で、昨年までの私をみるかのよう。とうとうヘルペスが出てしまったと嘆いていました。これからの6年間、真にお疲れ様です。鬼門は学会出張やシンポジウムの依頼と会議や入試業務が重なること。秋の依頼が舞い込む季節ですから特に要注意です。

松本さんは、どちらかというまでもなく「挑む」タイプなので、蝦夷関連学会などがあると自分から手を挙げてしまいがち。秋の入試業務や会議の日程をにらみながら相当注意していないと、ダブルブッキングということになってしまいます。そうやって、私も始末書を書きましたから。

そのようななか、今年の鈴木コレクション整理は本格始動しています。今週水曜日の夕方も早稲田チームから数名が参加してくれ、わが大学のメンバーと一緒に注記作業を進めてくれました。馬場さんも明治大学での講義の後で駆けつけてくれ、カラニス出土のガラス片の注記を頑張ってくださいました。

現在の主体は旧石器・新石器なのですが、ガラス片については分析依頼が舞い込んでいるために、注記を急ぐことになり、別動隊を組織?してもらっています。私も1時間程度お手伝いしましたが、山花先生の指示する場所が狭く、中年オヤジにはきついところです。私のような戦力外はともかく、順調に進んでくれることを期待します。

今朝は、朝日新聞の朝刊に掲載された「耕論」に目が止まりました。大学生の文章能力をめぐる議論です。お二人の主張には、どちらにも説得力があり、現場で同じ取り組みを進めてきた身としては、バランスのとれた記事だと感心させられたところです。ようは「やる気」になるかどうか、そう仕向けられるかどうかに関わっているものと思います。

今週は南の庭の草取りをおこないました。妻が2年ほど前に職場の裏庭から採ってきた紅葉の苗も、順調に育っています。スイレン鉢も綺麗にしたところです。もうすぐ花が咲きます。

少しショックだったのは、1992年夏に購入した腕時計が修理不能になったことです。順調に動いているようでいて、思わぬ時に2・3分遅れるという症状がでてきたので分解修理を依頼したところ、部品調達不可能だとの解答がメーカーよりあったとのこと。気圧計と高度計が付いており、なにかと便利だったのですが、20年間で寿命がきたようです。

明日からは那覇に出張。一週間の予定を組んでいますが、吉田健太君からのメールでは、那覇は集中豪雨に見舞われ、本格的な梅雨シーズン到来だそう。滞在中に陽の目をみることはないかもしれませんし、太陽が出ても蒸し暑いのでしょうね。

沖縄の旅(2013年度版)その1

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5月18日から沖縄本島での調査旅行に来ています(ホテルのインターネットが有線ランだったのでアップは帰宅後となります)。今回はおもろまち(新都心)に6泊して貝製品の調査(読谷村と浦添市の教育委員会)、文献の探索(県立図書館)と、県立博物館にご挨拶の予定です。

18日の夜には、さっそく私のところの卒業生諸君と吉岡さん(旧姓鴨田さん)ご夫妻と呑みました。吉田君と安斎君の奥様のお二人が揃って那覇市の正式職員に就任されたことを祝いしたのと、沖縄生活2年目になる吉岡ご夫妻の“沖縄観”をお聞きする会でした。吉田君が準備してくれた会場はなんとホテルの目の前。久しぶりの面々と楽しい時間を過ごしました。

吉岡さんに沖縄の生活を聞けば、冬の寒さが懐かしく、真冬の羽田に降り立つと、肌を突き刺す冷気に「これだ!この寒さを俺の体は欲していたんだ!」と叫びたくなるとのこと。ようやく寒い冬を脱して一安心している私にとっては、まったく信じられない心境ですね。それにオスプレイの騒音について聞くと、ヘリコプターとは比べものにならない騒音だそうです。

皆で揃って記念撮影としゃれこみましたが、店の人のシャッターですからなんとなくぼんやりしています。これも湿度のせいかもしれません。

翌19日には時折土砂降りとなる曇天の中、県立博物館の情報室と県立図書館に行き、文献あさりをしました。目的は沖縄の民俗に関する文献。さすがに地元だけあって各種揃っていました。大量のコピーを手に吉田君の勤務先である壺屋焼博物館にお邪魔したところ、那覇に新しくできたジュンク堂書店を紹介され、夕方行ってみれば、そこの「沖縄本コーナー」には、コピーをしたばかりの書籍のいくつかがまだ新刊として売られていたことに驚かされました。思わず総計2万5千円となる書籍数冊を購入。隣のカフェのドリンク無料券がおまけで付いてきました。

週が明けた20日と21日はレンタカーを借りて読谷村歴史民俗資料館にお邪魔し、貝製品の実測と写真撮影を行いました。初日は館長の仲宗根求さんにご対応いただき、2日目には小原裕也さんにご対応いただきました。2年前からの宿願だった中川原貝塚、片江口原貝塚、大久保貝塚、木綿原貝塚などからの出土品と格闘し、2日間の成果には大いに満足。これでようやく石釧と車輪石の祖型問題に結論が出せそうです。お世話いただいた仲宗根さんと小原さんには改めて感謝です。今後早い段階で論文に仕上げ、ご高配に報いたいと思います。

それと驚いたのは、ゴホウラについては死貝の利用頻度が相当に高いことでした。死貝の利用はイモガイにも確認できました。老貝の場合にしばしば見うけられるような、ごく小さな無数の貝が殻を溶かすかのように中に入り込む状態とは異なって、3年~5年程度のサイズのものにも多数の穴があいて、ところどころ気泡状を呈する箇所があり、死貝を貝輪として加工した状態があきらかなものが指摘できるのです。こうした貝殻の場合、それを腕輪に加工しようとしても表面に乳白色の光沢を出すまでには、相当削り込まなくてはなりません。死貝の表面がどのようなものか、自宅にある標本の写真を3段目に貼っておきますのでご確認ください。

つまりこのことは、貝塚時代後期前半(中)―(弥生中期から後期前半併行期)の人々も、礁斜面を水深30mも潜って生貝を獲るなんてことは、通常の感覚ではしなかった可能性があることを示しています。しかしそうなると、波打ち際に打ち上げられたものの「再利用」製品が一大消費地である北部九州弥生中期の社会ではどうだったのか。来月以降に予定している資料調査の課題となりそうです。

それと、今回の資料調査において当初予想していなかった成果のひとつに、ゴホウラ背面貝輪の未製品とされてきた資料のなかに、1点、魚網錘と判断されるものを見いだしたことが挙げられます。ゆえあって写真はアップできませんが、該当品は有名な木綿原貝塚2号石棺上の「ゴホウラ貝輪未製品」です。穿孔の位置が通常の資料とは異なる状態であったために不思議に思っていたのですが、実際に手にとってみれば、錘として利用された形跡が明瞭でした。縁部の削痕が人為的な研磨ではないのです。つまり外唇部の縁辺を除去していない「未製品」については、今後要注意かもしれません。ゴホウラの貝殻(本例も死貝の利用)は交換財や装飾品としてだけでなく、産出地の近隣一帯では日常生活の中で息づいていたことを再確認できたこと。これも収穫のひとつでした。

資料館を辞した後、貝塚が集中して発見された海岸段丘上の一帯をドライブしつつ帰路につきました。この一帯、90年代のリゾート開発によってあまたのホテル建設計画が立ち上がり、その予定地で多くの貝塚が発見されたとのこと。しかしほとんどのホテル計画は立ち消えとなったために、アクセス道路だけが整備されて今にいたったようです。そのおかげで貝塚の多くはまだ保存され残っていると小原さんに伺いました。

レンタカーを返し、ホテルに帰って数え直してみれば2日間で30点の実測と写真撮影を終えたことになります。ひとりホテルで祝杯をあげました。外は小雨がぱらつく曇天です。

参考文献 当真嗣一他1978『木綿原』(読谷村文化財調査報告書第5集)沖縄県読谷村教育委員会

喜名番所前

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読谷村での貝製品調査の際に、二日にわたって昼食をここでごちそうになりました。「番所亭」という沖縄ソバのお店です。国道58号線から座喜味グスク(グスクの入り口に読谷村立歴史民俗資料館)へと向かう交差点が「喜名」なのですが、歴史的な背景をもつ番所跡でもあるのです。

ちなみにこの国道58号線は、那覇市内の旭橋を南端に鹿児島まで(海中は仮想的に)通じる、日本が国家的威信をかけた道路でもあるのですが、琉球王朝の時代から沖縄本島を南北に縦断する主要幹線路でもあり、この喜名番所は、那覇からも名護からも等距離に当たる場所として宿場や休憩場所としても栄えたのだそうです。

その角にある「番所亭」が出すランチメニューは圧巻です。私が2日目に食したのは「Aセット」750円ですが、写真のとおり、ソーキ丼と三枚肉入りソバのセット。このソーキが真に美味いのです。ソーキは八丁味噌に似たミソで煮込まれ(仕上げられ?)ており、絶品でした。ソバも「ウコン練り込み自家製」だそうで、沖縄ソバにありがちなパサツキは適度に抑えられています。スープも化学調味料は一切不使用で、しかも深味があるのです。それにこの店では、ソバに必ず刻み生ショウガ(通常の店では赤いショーガ)がトッピングされています。

不肖私、沖縄に通うようになって10年が経ちますが、これまで石垣島でも那覇市内でも贔屓の店(飲み屋を除く)というものがありませんでした。しかし今回だけは自信をもってお勧めできます。

もちろん店内には有名人の色紙がたくさん貼られていましたから、おそらく話題の店ではあるのでしょう。私の場合は2日ともウィークデイでしたから、店には地元の方と覚しき客や、昼食に立ち寄ったタクシーの運転手だけで、さほど混でもおらずスムーズに入れただけなのかもしれません。だから改めて紹介するまでもないところかとも思います。ですが私の場合は、たまたま立ち寄って実際に食してみての、しかも感動を伴った証言です。

座喜味グスクに観光なさる際には是非お立ち寄りをお勧めします。もちろんグスク前にある読谷村立歴史民俗資料館も、考古学関係(弥生・古墳・近世)の方々には必見の資料が満載です。

沖縄の旅(2013年度版)その2

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5月23日には朝10時から沖縄県立博物館にお邪魔しました。私と同郷の片桐千秋さんが出迎えてくださり、学芸員室で班長(学芸課長)の久場政彦氏と民俗担当の大湾ゆかり氏を紹介いただき、その後、私の網取での聞き取り調査の内容や、にわか仕込みの民俗的知識について、専門的見地からのコメントをいただくことになりました。途中からはこの4月に館長に就任なさったばかりで多忙の安里進先生も加わって、しばし先島地域の民俗談義となりました。

たとえば私の調査地である西表島網取遺跡四辻の角に遺存している東西1対の「ビジリ」については、名称の由来はたしかに「ビジュル」信仰ではあるものの、辻に設けられているという立地状況や、左右1対というあり方は、明らかに石巌当のそれであり、前者は仏教からの影響、後者は風水思想からの影響であって、由来そのものには相互に関連性はないものの、網取遺跡の場合は名称と機能の両者が融合(習合)したものと理解できるのではないか、との暫定的結論で合意、ということになりました。

この間、さまざまな解釈の可能性について逐一ご点検いただき、その都度関連文献をご提示くださったので、非常に勉強になりました。傍で聞いていた片桐さんいわく「たった30年前(網取村の廃村時)までは当たり前だったはずの遺構の理解にこれだけの時間と手間暇を要するのに、2000年前の出来事をまるで見てきたかのように語るわれわれの感覚って、いったいなんなんでしょうね!」。まさしくそのとおりです。

そのほか御嶽の機能や類型についての話題、若者組の機能や残存状態についての話題と、時間が経つのを忘れて議論に花が咲き、大いに学ばされました。安里先生はこれから福岡出張だといって昼前に中座されましたが、ご対応いただいたお三方には深く感謝いたします。

そして午後からは片桐さんに館内をいろいろとご案内いただきました。その過程で教えられた事柄のひとつは、かのルイス・ビンフォードが沖縄県立博物館に寄贈した考古資料の存在でした。この問題については安里嗣淳先生がお詳しいとのことでしたが、戦後まもなくビンフォードは植物学者として沖縄を訪れ、地元の考古学者とともに沖縄各地の遺跡踏査を実施したのだそうです。この意外な事実に驚かされました。片桐さんの言葉を借りると「もし沖縄訪問がなかったら、プロセス考古学(旧ニュー・アーケオロジー)も誕生していなかったかもしれない」ということになるのかもしれません。その当該資料を第3段目にアップします。伊波貝塚出土の貝製品です。

なお前回の記事で紹介した貝塚時代のゴホウラ利用について、現在の沖縄考古学界では死貝をイノー(礁池内)で拾い集めて利用したのが基本、であるとの認識が共有されており、かつての果敢なダイバー説は陰を潜めているという現状を伺うことができました。千葉県立博物館の黒住耐二さんの学説が強い影響力をもって浸透しているとのことでした。

展示中の貝殻集積遺構にも死貝が目につきます。たしかに黒住さんは貝殻の観察に超人的な能力を備えていらっしゃいますので、彼の主張はつよい説得力をもって考古学者に響くのでしょう。その意味では私の対極にある研究者かもしれません。しかし負けてばかりいるわけにはいきません。俄然、来月以降の北部九州での資料調査に意欲が湧いてきました。

さらに前日貝製品の調査を終えたばかりの木綿原5号石棺墓について、私が承知していなかった興味深い事実も教えられました。この男性人骨の額にはシャコガイが被せられていたのですが、額の部分は陥没しており、その傷が致命傷となって死去した人物だったことが解明されたというのです。ようするにシャコガイは傷隠し、ないし“後生”での治癒をまじなう役割を負って額の上に被せられたと考えられるようです。

片桐さんの許可を受けて、館内の様子をアップします。なお考古部門の展示コーナーについては、通常写真撮影禁止となっています。ご承知おきください。このブログも、開設時本来の趣旨は考古学専攻生との対話ですから、そこは名目上教育目的(半分は)、ということでお許しいただけたのであろうと解釈しています。

なお常設展で今回是非とも撮影を、と希望したのは、琉球弧全体の地形模型と、方言札でした。前者については地形の把握ですから解説不要かと思いますが、後者については是非とも紹介したいと思う考古(民俗・歴史)資料です。琉球処分以後実施された本土への同化政策のもと、このような札が教育現場で実際に使用され、方言撲滅運動が行われたという事実に、私たちヤマトンチュウは真摯に向き合う必要があると思うのです。これが教育なのか、教育の名を借りた調教なのかを考えさせられます。もちろんこの資料の脇に展示されているのは伊波普猷(沖縄学の祖)の写真ですから、それは衝撃的です。沖縄県立博物館にお越しの際には、このコーナーだけは見落としのないようにとお勧めします。

そのいっぽう、片桐さんの解説を受けて初めて知ったのですが、常設展示でもっとも人気のあるのは不可思議な板碑状の絵文字資料だそうです。本島の西海岸に偏在するようですが、年代も不明、記された記号か文字か、その意味も不明という奇妙な資料。考古学に浸ってしまうと、遺跡からは出土することのない、こういった資料に目が向かないふがいなさ(目が向いたとしても対処不能として処理し去ってしまう考古学者の性向)を改めて教えられた気がします。

気がつけば午後3時半、非常に有意義な時間を過ごさせていただいた県博を後にしました。半日以上お付き合いいただいたばかりか、今後の研究計画にも耳を傾けてくださった片桐さんには返す返すも感謝します。

帰りがてらミュージアムショップに立ち寄ってみれば、昨日ジュンク堂では見つからなかった民俗学書が売られているのを見つけ、思わず購入。沖縄での図書買い付け額は合計5万円超となりました。普通の観光客の方々がお土産品に使う金額とそうは変わらない額かもしれませんが、私にとっては少なからぬ出費となりました。

博物館を辞すと外は雨でした。そんななか、読谷村の資料調査の際に方眼紙を使い尽くしてしまったので、夕方、浦添市の安斎君に電話して、那覇市内で方眼紙の買える店を紹介してもらい、行ってみると、「あいにく現在品切れです」とのこと。こちらのほうが私にとっては痛い。明日は安斎君に方眼紙を貸してもらう(もらう)ことになります。

夜、沖縄本コーナーに置いてあった谷川健一氏の『日本人の魂のゆくえ』(2012,冨山房インターナショナル)を読みました。その第10章「祭場と祭所―『山宮考』覚書」には感銘を受けました。午前中に再確認させていただいた御嶽=祖霊祭の場、との理解は、じつは日本列島全体に普遍化しうる問題で、神道の本来は祖霊祭祀であったことと、その対象は葬場でもあった山中であり、山宮祭の次第は葬儀と同形であることが論じられていたからです。

なんということはない。拙著「『大和』原風景の誕生」や「黄泉国と高天原の生成過程」で論じたことは、戦後まもなく柳田国男によって開示された神道理解をそのまま考古学的な見知からなぞったにすぎないことを確認できました。すなわち御嶽=マラエ=祖霊祭祀=本来の神観念という図式は、民俗学では周知の事実であることを改めて知ることになったのです。谷川氏が論じるとおり、柳田の「山宮考」は民俗学と考古学の架け橋になりうる書なのでしょう。同時に私の見解は民俗学的見地からみれば正解であったことを確認することになりました。

ホテルでビールを片手に「なんだ!そのまま書かれていたのか!」と独り言を発する中年オヤジを傍から見たら異様な光景でしょうが、こうして沖縄の旅の中盤は、充実した時間に浸りながら、これまで漠然としていた断片がつながってゆく感覚を実感することになりました。秘やかな興奮に包まれてもいます。

それはそうと、今朝から突然出た偏頭痛が止まりません。エアコンのかけ過ぎが理由なのか、肩凝りが原因なのか。電話で妻に教えられたとおり浴室にお湯を貯めて体を浸かってみたら楽になるので、なるほどと納得しましたが、さりとてエアコンを消すと蒸し暑く、悩みはつきません。

沖縄の旅(2013年度版)その3

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5月23日は、浦添市教育委員会での資料調査に充てました。朝から土砂降りの雨のなか、安斎君と嘱託のM城さんがホテルまで迎えにきてくれました。朝から手分けして文化財パトロールだそうで、現場の点検の帰りに寄ってピックアップしてくれたのです。途中で教育委員会御用達の文具店に寄って方眼紙を購入し、教育委員会に到着すると、課長さん以下数名が慌ただしく出かけるところでした。聞けば近世の橋が増水のために水没の危機に瀕しているのだそう。そのような大雨のなかでの資料調査となりました。

文化部長の下地安広氏にご挨拶し、資料調査をお願いした嘉門貝塚、城間古墓群調査時のお話をお聞きすることができました。嘉門貝塚については7万㎡を1年半で調査せざるをえないという、すさまじい政治的判断のもと、米軍用地内でもあって相当な苦労を強いられたとのことでした。

そうした先達のご苦労の賜ですから、申し訳なく思いつつ、同時に感謝です。一日をかけて両遺跡出土の貝製品を実測・写真撮影させていただきました。

城間古墓群の貝製品で気になっていたのはオオツタノハ貝輪のサイズでした。たしかに腕に通すには小さすぎ、唯一腕に通すことが可能なのはオオベッコウガサの腕輪だけ。ゴホウラ背面貝輪にも同様の小規模貝輪が認められるのです。埋葬に伴う副葬品としての位置づけが可能ならば、ミニチュア貝輪への志向性が意味するところはなにか、という設問の設定も可能なのかもしれません。

今回の調査で最大の成果といえるのが、組み合わせ式イモガイ横割り貝輪と、石釧のうち私がいう第1群石釧(手元にある実測図を最下段にアップしておきます)との間のプロポーションの酷似を再確認できたことです。先日の読谷村の資料2点に、嘉門貝塚B地区出土品からも3点を確認できました。このほか、まだ実見していないものを含めると6点程度となります。今後増える可能性は濃厚です。

この一群の特徴は、内部を丹念に削り込んで繊細な造作を施すことにあり、形状的にみれば側面の上半部を斜めに削り込むことによって、上半部は斜面、下半部は直立面となるのですが、この様相は第1群石釧のそれとみごとに一致するのです。サイズ的に見ても高さは1.6cmから2cmで、石釧とまったく同じです。もちろん貝輪のほうは組み合わせ式ですから、径は一致しません。

貝塚時代後期前半のどこにくるか、年代的な問題は依然として残りますが、貝塚文化のなかにこうした一群の腕輪が含まれることは非常に重要だと思うのです。ようするに貝塚文化人の貝輪の伝統を、倭王権側は模倣したという理解が可能になるからです。ひょっとすると、第1群石釧の成立は北部九州を介していないかもしれない、そんな可能性含みでもあるのです。

とはいえ、側面のプロポーションが似ているというだけで、石釧との近似を論じるなど言語道断であるとの批判も予測されるところです。そしてこの点については、表面の仕上げに際して浮き立つ生長線の縦縞模様に由来する可能性(殻頂部側を上にした場合、横からみれば右側に張り出し気味の縦縞)と、仮に死貝の使用であれば、この境界部分が意図せざる沈線として作出されてしまう現象が、石釧へと模倣される段になって沈線・刻線表現へと受け継がれたという可能性の両者によって説明づけることを考えています。後者の実例は、読谷村中川原貝塚出土品で確認できます。もとより、刻線自体を施す貝輪探索も継続してゆきたいと思うのです。もちろん、その実例も今回の調査で確認できました。

そんな新発見に気を良くしながら、安斎君とふたり、この一群に型式名を与えるとすればどのような名称が適当か、という議論を行いました。「嘉門・中川原タイプ」とでもしましょうか。なお当該資料の細部写真については「本貝塚の資料がこれまで以上に注目されるようになればなによりですから」との安斎君からの許可を得られましたので、ここにアップさせていただきます。

明日売り出される同成社の『古墳時代の考古学』第4巻には間に合いませんでしたが、第2章②に載録された拙著「腕輪形石製品」の本文中(168頁)で触れた祖型貝輪としてのイモガイ製横割貝輪とは、この一群をさしてのことです。

全力で実測を進めましたが、夕方5時までに作図を完了したのは17点で、城間古墓群は終えたものの、結局嘉門貝塚資料については見切れず、次回にもう一度資料調査をお願いすることとなりました。嘉門貝塚の資料は、確かに可能性を秘めた重要資料であることを再認識させられました。下地文化部長を始めとする浦添市教育委員会の方々には心から感謝します。もちろん安斎君には本当にお世話になりました。

夕方は吉岡さんご夫婦と安斎君とが相談した結果、山羊料理の店にご案内いただくことになりました。しかし朝の車中でそのことを聞かされた私は、少したじろぎつつ、同乗していたM城さんに地元での反応をお聞きしてみたところ、「私は山羊、絶対にダメです!」とのご返答。いかに山羊料理が辛いかをお聞きしながら、いよいよビビッてしまいました。

お店は国際通りから少し脇に入ったところの”話題の店”だそうで、鴨田さんはすでに馴染み。安斎君は7年目だから当然かもしれませんが、吉岡さんのご主人もなんら気にせずにパクパク食されるし…。出された山羊の刺身、金玉の刺身、炒めものまではなんとかなったものの、山羊汁はダメでした。

それとビールでは山羊の香りに勝てないので、早々に泡盛を注文して、泡盛を注ぎながらの“賞味”となったため、後半はほとんど酩酊状態のなか、途中から来てくれた安斎君の奥様も「君のために残しておいたから」と安斎君から出された金玉の刺身を躊躇なく口に入れて「いけるわね!」との反応を呆然自失に近い状態で見ていました。私を除く二組の夫婦が平然と山羊を食する状況のもと、ひとりだけ異邦人がそこにいるという、いままで経験したことのない疎外感、というか気が遠くなりそうな感覚(こちらは酔いのせいか)を味わいました。

おかげさまで後半の記憶がありません。昆虫類や爬虫類などが平気でゲテモノ喰いで通ってきたという私ですが、今回のもうひとつの発見は、私はゲテモノどころか、れっきとした伝統料理でもある山羊肉が苦手だという事実でした。臭いに弱いようです(そういえば、昆虫類についても蚕のサナギだけは苦手、それも味ではなく、口中に広がる匂いですから、その点で私の弱点には共通性があるようにも思います)。

鴨田さんからは「目が冴えて眠れなくなるわよ!」とか聞かされたおぼろげな記憶はあるのですが、記憶はそこまでで、朝、なぜかホテルで普通に寝ている私に気がつきました。

それと鴨田さんご免なさい。せっかく頂戴したお土産、おそらくお店にそのまま置いてきた気がします。
そのような次第で、今回の調査旅行、真に充実した時間を過ごさせて頂きました。

完売御礼

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少し顰蹙ものの記事かもしれませんが、このブログでも紹介させて頂いた「西相模考古」第22号と『古墳時代の考古学』(第4巻)「副葬品の型式と編年」の2冊は、駒澤大学会場に持ち込まれたすべてを完売することになりました。しかも両著ともに昼前には売り切れだったようです。

3段目の写真は、161部(22号)を売り切った後、バックナンバー売り上げ分を加えた売り上げ計算中の伊丹さんですが、伊丹さんの「東北生活2012」も販売促進には大いに役立ったに相違ありませんし、25名もの執筆者から五月雨的に届けられた原稿類や図版類を適確に編集いただいた立花さんの力技あっての賜物であることも事実です。企画立案者の西川さんの目論みが大当たりだったというところでしょう。関係された皆様に「お疲れ様でした」と申し上げます。

また本ブログを通して上記の2著の刊行をお知りになり、ご購入された方がいらっしゃったとしたら、厚く御礼を申し上げます。もちろん、自信をもってお勧めできる2冊だと思いますし、実際に手にとってパラ見してみてのご購入の結果だったと推察いたしますので、お買い得感はあったものと思います。

西相模考古については私も帰路、他の執筆者の論文を数本読ませてもらいましたが、問題意識の部分で共有されているところが予想以上に多いという印象を受けました。それぞれの文体と表現上の癖に即して書かれていますので、まるで異なる受け止めをしているかに見える部分もありながら、通底する部分の認識の共有を確かめる、という意味でも楽しめる冊子になっていますし、内容的にみても今後の議論のネタになるに違いないと思います。

また同成社の「副葬品の型式と編年」の方については、もしご購入なさった方々がこの記事をお読みであれば、総論の後半(2-3「モンテリウス編年学と日本考古学」、10頁から13頁)に少し着目していただきたく思います。学史に関する新たな発見を速報的に記しています。今年はこの問題についても少し踏み込んだ議論が展開できれば幸いかと思っており、モンテリウスの1885年刊行書(1986年英訳版出版)については、現在インドに滞在中の小茄子川君に翻訳を進めてもらっているところです。

社長の佐藤さんのお話では、今回の4巻、比較的若い世代の方々が購入する傾向にあったとのことですので、学生の皆さんからの注目度は高かったのかもしれません。となると、総論の話題についてもなるべく早めにこのブログでも補足記事をアップし、学生の皆さんに編年学を学んでいただくうえでのヒントにしてもらう必要ありか、とも思います。

西相模考古のブースの隣には「西アジア考古学会」のブースがあり、トイ面には我が大学のブースがありました。どちらも販売担当として私のところの学生諸君が出張ってくれていました。

そこそこの売れ方だったようですが、例年販売数は減少気味ですので、本当のところは悩ましい情勢にあるのには変わりなく、かつての80年代前半のあの喧噪を追体験させてあげられない辛さがあります。西相模考古のようなノリを、今後考えてみるのもよいのかもしれません。

モンテリウスの型式学と編年学(その1)

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先に私が活字化した、モンテリウスの実践にみる型式学的研究法の位置づけとその特性について、一部類似した見解を北海道大学の小杉康さんが執筆なさっていることを昨日知りました。

というのも、昨日の午後、松本建速さんが私の部屋にやってきて「Hさんも同じようなことを述べているようだと聞いたので、総論(『古墳時代の考古学(第4巻)』)を是非コピーさせてくださいな」との申し出を受け、なぜ藪から棒にそのようなことになったのかをお聞きする過程で話題にのぼったからです。

該当論文は小杉康2008 「土器型式編年の基礎概念―山内清男・モンテリウス・チャイルド―」『縄文時代の考古学(第2巻)』同成社刊です。非常に多くの図書が世に出る昨今のこととはいえ、うかつでした。しかも同一出版社から出された関連シリーズなのですから。松本さんが私の小文をコピーする傍らで、私は小杉さんの文章の方をあわててコピーして拝読することにしました。

なぜ松本さんが小杉さんの文章との関連で私のものを求めたかといえば、今季の3年次生向け必修科目「考古学研究法」で、層位学や共伴関係、そして型式学的研究を取り扱うことになったからでした。昨年までは私が担当していた部分でしたので、その松本版を今年はやってくれているからでした。

さすが松本さんだけあって、濱田耕作の1922年著作『通論考古学』と1932年訳『考古学研究法』(原著はモンテリウス1903年著作)を読み、小杉論文と照らしながら、今日の日本考古学における「型式学偏重主義は、モンテリウスの原著からみればおかしなことになっている!」と喝破。松本さんいわく「層位的な事実関係や共伴関係の認定が充分に可能であるなら、型式学なんて本来は不要、とまではいわなくとも、前面に押し出され偏重される方向性には納得しがたいものがある!」とのこと。確かにそのとおりなのです。

事実、濱田自身が通論考古学において「考古学的研究に於ける直接基礎的の方法たる層位的研究法を試むる能わざる場合において、吾人の用ゆる方法の一つは型式学的方法(Typological method)なり」(濱田1922,146頁)と記しているのですから。つまり研究環境の制約が大きい場合の次善の策として型式学的研究法が紹介されているという構造のもとにあるわけで、それ以上に層位学的方法や各種の共伴関係の把握が重要であるという研究法の基本が述べられている、そのことの意味をもっと重視しなければいけない、となるのです。

現在の日本考古学が、未だに層位的関係や各種の共伴関係の事例に恵まれていないのかどうか、そこを今季の授業では問いたいという松本さんの目論みだと私は理解しました。

さて小杉さんの文章を読むと、モンテリウスの主眼は編年体系の構築にあり、その基礎単位としての型式概念であることを論じていらっしゃる点で、確かに私の小文が開示した内容と響き合っています。その意味において、私自身も学生時代に教科書的基礎文献として仰ぎ、多くを学んできたところの田中琢氏の1978年著作「型式学の問題」『日本考古学を学ぶ(1)』所収や、故横山浩一氏の1985年著作「型式論」『岩波講座日本考古学(1)研究の方法』所収は、じつはモンテリウス自身の主張(および実践)や、濱田が紹介した研究法の当時の構造とは異質なものへと変じてしまった、その後の日本考古学の方向性の一端を象徴するものであろうと思います。

小杉さんのご指摘のとおり、「田中と横山にあってはともに〈編年の単位となるべきもの〉は、弥生土器研究におけるものならば『様式』ということになる。モンテリウスの研究法を紹介する意図があるならば、編年の単位としては『時期』と明示すべきである」(小杉2008,31頁)となることも頷けます。

さらに日本考古学においては、唯一、縄紋土器編年の構築を主導した山内清男が、モンテリウスや濱田の主張内容を正確に理解し、実践に結びつけたという小杉氏の理解についても同意します。

そればかりか、山内はモンテリウスの1885年著作「Dating in the Bronze age 」の内容をも充分承知していた可能性すらあるように、私は秘かに思うのです。1903年の著作について、山内は原本を所持していたことが、雄山閣出版から出された復刻版の巻末「解題」(故角田文衛氏筆)を通じて知られているのですが、そうであるなら当然1885年著作についても…との憶測です。編年学の構造が非常によく似ているからです。

そのため、先の小文では当初、註の3として「日本考古学においては山内清男の縄紋土器編年と小林行雄の弥生土器編年が対置され、「型式」概念・「様式」概念の有効性が論じられてきた。しかしモンテリウスの実践と整合的なのは、じつは山内の方法であることも併せて理解できよう。さらに山内は、モンテリウスの1885年著作を承知していた可能性がある。」との一文を添えるつもりでした。もちろん「さらに」以下の文章は根拠のある話でもないし、前段の文章についても、本文を読めばそういった含意が明らかなので、明示すると返って冗長になるかと判断し、全体を削りましたが。ただし小杉さんの文章を拝読した今は、「さらに」より前の文章は削除せずに活かしておくべきだったかもしれないと考えてもいます。著者の期待どおりにすべての読者が受け止めてくれるはずもないからです。

さて、小杉さんの文章に戻りますが、小杉さんの論文の後段以降の「先験的地域区分」云々については、なお議論の余地があろうかと思います。型式の認定については、時間軸上の基礎単位としての把握と同時に、空間軸上の把握がモンテリウスにおいても伴っていると考えるからです(以下、不定期で続く)。

異様な盛り上がりをみせた西相模考古プレシンポジウム

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表記のシンポジウムが一昨日の6月1日、横浜市埋蔵文化財センターを会場に開催されました。

この集まり、来年の2月に開催される予定の本番に備えた準備会だったはずが、67名を越える方々が各地から集まって、真に盛況でした。というのも、神奈川県域における弥生後期から終末期までの標準資料が一同に集められて展示されることになったからです。土器・石器・鉄器・青銅器・ガラス製品類が1階と2階に分けてところ狭しと並べられ、まさしく圧巻でした。

最初は横浜市埋蔵文化財センターが保管している関連資料を展示することで、古屋紀之さんが構築された編年案を現物と照らしながら点検しよう、との目論みだったようですが、せっかくの機会だから県内各地の関連資料も持ち寄ってみたらどうか、との西川修一さんの一声でこうなったようです。

午前10時から始まって午後5時まで、じっくりと資料を見ることができましたし、石製品や青銅製品の主だったものについては、その場で簡易実測をさせて頂くこともできました。私の隣をふと見ると、明治大学の石川さんも同じ行為におよんでいらっしゃり、二人で同じ穴のムジナぶりを演じてしまいました。

そこここで型式学談義、地域性談義が繰り広げられていて、耳学問だけでも充分に楽しめました。私の知っている方だけでも福島県の青山さん、石川県の田嶋さん、長野県の青木さん、山梨県の中山さん、愛知県の石黒さん、静岡県の鈴木さんや篠原さんなど蒼々たるメンバーが参加しており、いかに注目度が高いテーマであったのかを印象づけるものとなりました。もちろん東京・神奈川在住の弥生文化研究者はほとんどの方々が参集されたという高い求心力。はたして本番のシンポジウムはどうなるのか、興味(楽しみ)がつきません。

午後からはプレシンポジウムということで、予備報告を古屋さん(南武蔵地域)、斎藤あやさん(玉類の流通について)、杉山和徳君(鉄器の流通)の3名の若手研究者がそれぞれのテーマで発表を行ってくれました。上記のような中年オヤジたちが居並ぶなかでのプレ報告でしたから、それはやりにくかったことでしょう。とはいえ、今後の弥生時代・古墳時代研究を担ってくれる世代ですので、是非とも頑張っていただきたく思います。

ちなみに夜の懇親会にも47名が参加。当初予定していた会場では30名しか入れない、とのことで急遽会場を変更して行われました。この懇親会の趣旨も、本来は宮城県への派遣から戻られた伊丹さんのご苦労さん会と、7月から東北へ派遣される土屋君の送別会を兼ねた、西相模考古の第一世代の方々(岡本会長や曽根さんら)への慰労を行うというものでした。東北派遣へのお二人への挨拶にたったのが文化庁の禰宜田さん、というのも象徴的というかなんというか。ともかく異様な盛り上がりをみせた懇親会でもありました。

こうした異様な盛り上がりについて、石黒さんの次の言葉が印象的でした。すなわち「我々の世代には『九阪』があり『三県シンポ』があり、そこへ出かけてゆくことで世代や所属を越えた考古学談義が可能だった。さらにそういった環境のもとで育てられたために、地元でも盛んに『土器持ち寄り会』を行って議論を活性化させたのに、その雰囲気が失われて久しい昨今、今回のような集会には、俺も皆も、じつは飢えていたんだ。」とのこと。まったくそのとおりなのでしょう。

そういえば私も30代の頃は、車の荷台にコンテナを積んで香川まで往復したことや、各地の研究者を徳島までお呼びして、武家屋敷出土遺物の見学会を開催したことなどを思い出します。私の車が今もステーションワゴン型なのは、考えてみれば、こうした30代の頃の日常性の名残なのかもしれません。

80年代から90年代にかけては、確かにそのような雰囲気がありました。やはり肝心なことは、現物を目の前にしての談義がいかに重要であり、不可欠であるかを、次世代の研究者にいかにして継承していただくか、に尽きると思います。要するに今回の西川さんの企画は、そのような趣旨のもとにあったと理解されるのです。

われわれ中年オヤジ世代が今後ともこうした集会を楽しめるか否か、それは若い世代の研究者や、今後研究者を目指す学生諸君のエネルギーにかかっている、といっても過言ではないようです。

西川さんを始め、会場の手配を行ってくれた古屋さん、それに各地の遺跡出土品を持ち寄ってくださったそれぞれの遺跡の担当者の方々、真にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

アイヌの沈黙交易

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本ブログではお馴染み、旭川市博物館の副館長、瀬川拓郎さんの新著です。途中で編集者の意見を汲み変更になったという副題は「奇習をめぐる北東アジアと日本」とありました。新典社刊で税抜き800円です。いつもどおりの軽快な筆致でアイヌ民族と北方集団との間で繰り広げられた沈黙交易の問題を論じていらっしゃり、読みやすさと内容の深さの共存状態には唸らされるばかりです。

今回の新書は瀬川さんの前著『コロポックルとは誰か―中世の千島列島とアイヌ伝説―』(新典社新書2012)の続編として執筆されているのですが、第3章2節に「ライチュアル・ヒストリー」とあるとおり、経済的側面からの押さえだけでなく、呪術的・宗教的側面からも沈黙交易を支えた背景が導かれる、との斬新な見解が示されています。

ここでの呪術的・宗教的側面とは、これまでにも幾人かの歴史・民俗・民族学者が注目してきたところの、交易や交換それ自体が帯びる宗教性の問題(たとえば「市場」という特殊な人為施設が、交易や交換が孕むさまざまな危険性を妥協的に解消させる装置でもあったという趣旨の議論や、貨幣そのものが帯びる宗教的側面についての議論など)とは少し性格が異なっています。

なぜかといえば、千島アイヌと北海道本島アイヌとの間で展開された沈黙交易(それがコロポックル伝説を支えた歴史的背景でもあることを前著は解明しているのですが)は、同一民族内でのそれであって、一般的にいわれる「同化や交流の進展を忌避しつつ積極的に展開される交易形態としての沈黙交易」とは同一視できず、その特殊性のありかを解明しなければ、同一民族内部でも展開することになった沈黙交易の意味を歴史的に把握したことにはならない、という瀬川さんの課題設定の妙があるからです。

その結果、島嶼部に居住する人々が共通して抱いたであろうところの、外部から寄り来る病魔への危機意識およびそれを祓う呪術的側面の作用が介在する必然性があって、陰陽師や修験道者が持ち込んだ祓えの呪術的儀礼も採用されたし、同じ脈絡のもとで、たとえ同一民族同士であっても島外に居住する人々との恒常的な接触は忌避され、彼らにとっては北方異民族との交易において古くから馴染みでもあったところの沈黙交易が、島外に居住するアイヌ集団との間で採用されることになったのではないか、との斬新な見解が示されています。

当該箇所を瀬川さんのブログ記事から抜粋的に引用しますと、「千島アイヌは村人が島外へ狩りに行って帰ってくる際、これをすぐには迎え入れず、ウケエホムシュと呼ばれる行進呪法をおこなったうえで上陸させていました。この行進呪法は魔神退散の呪術で、戦勝祈願や病魔退散、あるいは芸能としてもおこなわれていたもので、すでに14世紀初めにはアイヌ社会に存在したことが『諏訪大明神絵詞』によって確認できます。私は、この行進呪法が古代陰陽道の反閇儀礼に由来したと考えています」(「北の考古学」2013年2月7日付け記事)とあるのです。実際の本文は、これにかなり手が加えられていますが。

このように、今回の著作で特に目を引くのは、アイヌの人々が行った行進呪法の系譜が古代日本の陰陽師や修験者のそれに求められることを論じていらっしゃる点です。だからアイヌの人々がいかに日本側からの強い影響力のもとにあったのかを強く印象づけるものとなっています。

具体的には7世紀末から9世紀までの間に起こった第一の波(農耕・竈・刀子・機織技術)、10世紀に生じた第二の波(陰陽道・修験者)、13世紀以降15世紀に顕在化する和人居住域の拡大と交流、として整理されており、瀬川さんのアイヌ史論は『アイヌ・エコシステムの考古学』(2005)に端を発し、好著『アイヌの歴史』(2007)から本書までの4冊の著作を経て、ほぼ骨骼が固まったという印象です。

そうしたこともあってでしょうか。7世紀から13世紀に展開したアイヌの祖先集団が残した文化だと考えられる「擦文文化」という名称は、今回の著作では登場しません。代わりに「アイヌ」や「古代のアイヌ」と読み替えられています。さらに古墳時代の終末期に東北北部から北海道へと移住を敢行した人々についても、古墳文化を携え北海道のアイヌに「日本化」という名の強い影響力を発揮した「エミシ集団」となっています。松本建速さんの考古学的蝦夷論と底流で響き合ってもいます。

今述べたような意味でも、島嶼部における異民族との交易や交換、あるいは文化の融合や境界領域の問題に関心をおもちの考古学研究者にとって、必読の書であることは間違いありません。先の引用文にある「反閇儀礼」(ヘンバイ・ギレイ)という用語や意味も、それが「疱瘡(天然痘)神」を祓う儀礼の一環であるという見解についても、私は恥ずかしながら本書で初めて知りました。そうなると疱瘡神と源為朝との関係が気になりますし、沖縄での為朝伝説との関わりについても、なにか関連がありそうな気もしてきます。

なお不肖私も、同じく島嶼部にありながら、千島とは対極にある与那国島の歴史について、近く刊行される「町史」に執筆させていただく機会を与えられました。私が主題として掲げたのは、沈黙交易の対極にある海上での「お祭り宴会交易」(民族学者安渓遊地氏の聞き取り結果にもとづく、台湾島民と与那国島民との間で繰り広げられたそれ、本ブログ2012年2月5日記事「クブラバリ・トングダ伝説の背景を考える」参照)ですから、交易の形態も対極にあって、その意味でも興味深いのですが、瀬川さんのような軽快な筆致にはほど遠く、昨日ゲラ刷りを点検してもらった妻からは「あなたの文章は相変わらず硬いわね」との寸評をもらってしまいました。

瀬川さんが前著で示した女性の「文身」(イレズミ)の問題も、同じく南西諸島には広まっていたのですが、私は取り扱えていません。瀬川さんの背中を追いかけたいと常々思う私ですが、まだその背中は遠く、本書を読むと、さらに遠く感じられてしまいます。

今週の後半からは、私も奥尻島の青苗遺跡を訪ね、瀬川さんの議論の舞台を垣間見ようと思っています。玉の研究者大賀克彦さんを誘いました。現在は苫小牧市で修行中のN谷君も現地で合流する予定です。

瀬川さんの熱烈なファンであると常々おっしゃっている西川修一さんも当初参加を切望され、瀬川さんとの懇談を楽しみにしていたのですが、勤務の関係もあって今回は断念されました。もちろん私としても、今年でなければ敢行しえない資料調査です。

モンテリウスの型式学と編年学(その2)

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H.J.エガースの著作『考古学研究入門』(原著1959年刊)は1981年に田中琢氏と故佐原眞氏によって訳出され、日本語版として岩波書店から出版されました。本書は、私たちがよく知る考古学の入門書として、特にモンテリウスの型式学的研究法を学ぶための教科書としても重要な位置を与えられてもいます(現在は絶版のようですが)。

さて、本書の訳者「まえがき」には次のように記されています。「O.モンテリウスの型式学的研究法は、考古史料の相対年代決定法の基本になるものだが、それを考古史料に適用する際には、すでにこの研究法の創始者のモンテリウスが説いているとおり、当然それに応じた手続きと検証を必要とする。しかし、昨今この正当な手続きと検証過程を無視し、不適切にこの研究法を適用したため、正しくない結果がひきだされたとき、この誤った結果の故に、この型式学的研究法そのものを否定しようとする傾向がある。それは世界的に認められる傾向である。いまここでモンテリウスその人のいうところを正しく理解し、その研究法をさらに発展させる必要性は極めて高いが、半世紀以前に刊行されたモンテリウスの著作の訳書はいまでは決して読みやすいとはいい難いものであって、その手引きとして、本書のこの部分は最適である」(田中・佐原1981、同書まえがき13・14頁)

この引用箇所を読めば、私たちが本書の出版に込められた訳者のねらいを正しく捉えたことを再確認できるでしょう。

ただし私は学生の頃から、この「まえがき」で紹介されたモンテリウスの捉え方と、本文で記述された内容との間には微妙な差があることが気になり、教師になって以後も、その違和感はぬぐえないままでした。

一例をみてみましょう。エガース本人は、第2章の後半で次のように述べているのです。
「今の世代の研究者のほとんどが型式学的研究法をオスカル・モンテリウスの名と結びつけている。しかしモンテリウスがこの問題を最初に考えついたとするには議論の余地がある。―中略―モンテリウスは型式学の創始者ではなく、正確な相対年代と絶対年代とに到達しうるあらゆる研究法の長所と短所をそれぞれ明確に比較検討しそれらすべてを総合したなかから彼の体系をあみだした最初の人である。彼は型式学的研究法と同じように層位学的研究法も用いている。いすれにせよ、彼が創案者だとすれば、『一括遺物』の創案者なのである」(H.J.エガース同書、86頁)と。

つまりモンテリウスは型式学的研究法の創始者ではなく、上の引用文で略したところにはヒルデブラントとこの名誉を分かち合う必要があると述べられていますので、「まえがき」の記述内容とは異なるのです。

さらに型式学的研究法だけではなく、層位学的研究法と、なによりも「一括遺物」という概念を創案した人物としてこそ評価すべきだと述べられている点も「まえがき」との間のニュアンスの差として気にかかるのです。

そしてここからは、次のような疑念が生じます。「まえがき」の内容とモンテリウスおよびエガースの記述内容の間には、じつは認識上の差違が生じており、「まえがき」はすでにモンテリウスの研究法の一部だけを抜き出して、その重要性を再確認せよ、と誘っているのではなかろうか、との疑念です。

ではモンテリウスの創案だとしてエガースが重要視するところの「一括遺物」とは、どのような概念なのでしょうか。第2章では「確実な出土品」・「同時に埋納された遺物の総体」などとして実例が挙げられ、それは型式組列の検証に用いられることが述べられています。この点については本ブログをお読みの方にとっても馴染みの事柄であろうと思います。

しかしそれ以上に注目すべき箇所は別のところにあるのです。それは第3章の「考古歴史年代決定法」の項目です。ここではモンテリウス自身の言葉からの長い引用文を付して「一括遺物」の重要性や意義が紹介されています。

抜粋しますと「一括遺物とは、わたくしはつぎのようなものと理解している。すなわち、必要な観察力を備えた信頼できる人物がある場所に一度に同時に埋没されたと想定せざるをえない状況で遺物を発見する、そのようにして発見された遺物の総体である。そのような一括遺物のひとつが貨幣―以下『貨幣そのほかの搬入品』を略して『貨幣』というーを含み、その土地の製品といっしょにみつかれば、それによって、貨幣とその土地の製品がほぼ同時代のものであることが暗示される。もちろん暗示以上のものではない。というのは、両者がいっしょになって埋没されたとき、その貨幣が非常に古く、その土地の製品がたいへん新しかったことがありえるし、またその逆もありえるからである。
 これに対して、第一番目の一括遺物と同じように、第二の一括遺物においても同じ君主の貨幣が同じ型式のその土地の製品といっしょに発見されれば、両者が実際にほぼ同時期のものである蓋然性は著しく増大する」(同書136・137頁)。

この引用文の前に、型式学と出土状況とを手がかりにして編年を確立しておくことが必要だと述べられているので、一括遺物の概念は、歴史年代が判明している遠隔地からの搬入品が、どの時期に併行するか(同時期であるか)を判定する交差年決定法において、間重要視される<共伴関係の判定を下支えする基礎概念>であることがわかります。

ようするに一括遺物の概念とは、相対年代決定法と交差年代決定法のいずれにとっても研究上の基礎となる考古学的実態(発掘調査を通して注意深く導き出された事実)としての<繰り返し現れる諸型式の共伴関係>をさすと理解すべきなのです。だからこそ、本概念は当初、一括遺物ではなく「確実な出土品」と呼ばれてもきたのです。さらに後の時代になると本概念は、V.G.チャイルドによって遺構や遺跡に拡張され「考古学的文化」と呼び換えられますし、「アセンブリッジ」とも表現されるようになるのです。

そしてこのようにみてくると、エガースの次の文章の意味がより鮮明になります。
「以上述べたことから、モンテリウスにとってさえも、一括遺物、すなわち型式の集まりが決定的であったことがわかる。最初モンテリウスがまだ真の暗黒のなかで手探りしていたころだけは、彼にとって型式学が確実なよりどころになっていたが、後になると、この松葉杖を必要としなくなる」(同書 103頁)。

つまりモンテリウスにとっての型式学的研究法は、闇中摸索時の松葉杖でしかなかったと述べられているのです。「まえがき」の主張と本文とがいかに異なるか、おわかりいただけたのではないでしょうか。

「まえがき」が示すような検証過程が問題なのではなく、基礎概念の位置づけ(比重のおきかた)や実際の運用法を取り違えたことのほうが、じつは問題だったのではないでしょうか。その意味において「いまここでモンテリウスその人のいうところを正しく理解し、その研究法をさらに発展させる必要性は極めて高い」(冒頭の引用文から)といえるのです。

「一括遺物」を基本に据えて、構成内容をカテゴリー別に型式分類するという手法(この順序を取り違えると根本的な間違いを起こしかねないという教訓に裏打ちされたそれ)。それがモンテリウスの研究法だったのです。「編年学」と表現するのが適当だと私は思います。彼の実践における型式学的研究法は、1885年の著作時には、すでに参照すべき分類案として、実際のところは補助概念として運用されていたにすぎないのです。型式分類と型式学的研究法を識別して捉える必要があることについても、同様に重要です。

次回は、エガース自身もまた、モンテリウスの編年学を誤解しやすい形へと加工した可能性について紹介することにします。

モンテリウスの型式学と編年学(その3)

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先に紹介したエガースの著作『考古学研究入門』の中で、読者の目を引きつけるのは、本文95頁に掲載された第7図です(上段の写真)。「モンテリウスの型式学と編年案」と題されたこの図は、本書の表紙にも貼りつけられていますので、「ああ、あれか」と思い出される読者も多いのではないでしょうか。

この図はしかしモンテリウス本人の作業結果とは異なるのです。エガースが簡略化して図化したものだからです。

1885年の著作から私が改めて作成しなおした編年表を2段目にアップしましたので(縦横の関係が揃ってはおらず恐縮ですが)、両者を見比べてみてください。

エガ-スが行った重要な変更点は、型式名の単純化、および置き換えと代表遺物の明示です。たとえば1期の剣について、モンテリウスは有機質の柄が装着された、短剣のみからなるa.b.cの3型式を併記していますが、エガ-スはただ「A型式」と置き換え、先の3型式のなかからa型式(イタリア製の搬入品と推定された資料群の一部)を抜き出し図示したのです。さらに2期のところには、モンテリウスがe.A.Bの3型式を並列させたのに対し、エガ-スは「B型式」と置き換え、図示したものはB型式(中欧ないし北欧製と推定された資料群中の最古型式)です。こうした型式名の単純化と置き換えによって、たしかにシンプルな編年表にはなっているのですが、次に示すふたつの重要な事柄を捨象してしまったのです。

まずモンテリウス本人は、a型式やA型式など古段階の資料を南方からの搬入品だと明記しており、B型式以降の摸倣型式からなる系列とは明確に識別しています。つまりA型式までの組列とB型式以降の組列とは別立てに置いているのです。しかしそれらを縦一列に並べてしまうと、対応する本文の性格上、読者はモンテリウスがこれら諸型式を一連の組列として組み上げたのではないか、と誤解してしまう危険性を孕むことになります。他のカテゴリーの諸型式についても同様です。

本来は考古学的実態(搬入品の諸型式と摸倣品の諸型式、材質転換、地域性)を丹念に汲み取りつつ作成された編年表だったのに、読者に対する読みやすさへの配慮でしょうか。そうした1885年著作では備わっていた緻密さや入念さが完全に払拭され、1903年著作の内容を可視化しつつ解説するための図へと改変されたことがわかります。

次に各型式は、私たちが馴染んでいるような「内部において斉一性を示す」(贄1991より)資料の一群ではありません。一括遺物としての出土状況を勘案した結果、明らかに形態変容上の段階差をもつ数群をまとめているのです。先に示した剣のA型式の場合には、柄と刃部の装着部にみられる半円形の切り込みa形態とb形態の2群の資料を内包します。B型式にいたっては、この半円形の切り込みc形態、d形態、e形態の3群で構成されているのです。

つまりこれら2群ないし3群からなる諸資料は、「斉一性」ではなく「共時性」(贄1991より)によって一型式にまとめられた、という関係にあるのです。ですから、単一の資料を代表遺物として提示するわけにはいかないはずだったのです(なお、これら諸形態の様相については『考古学研究法』(濱田訳1932)の58頁と59頁にイラストとして掲載されていますので、興味のある方はご確認ください)。

今述べた二つの重要事柄を除外し図化したところで、はたしてモンテリウス編年学の神髄が可視化されたことになるのかどうか、読者の方々にも是非お考え頂きたく思います。つまり第7図とは、モンテリウス編年学の実践において重視されたエッセンスを排除することで、彼がまだ闇中摸索状態であった時点の状況の再現を意図したもの、ともとれるのです。もちろんこのような性格の図では、モンテリウスの編年学を紹介したことにはなりませんし、どこか別のところにある、異質な志向性ないし思想を表明した図であるかにもみえてしまうのです。

モンテリウスが実際におこなった編年学は、エガ-ス自身が記述するとおり、つねに「一括遺物」を重視し、それを分割することなく、どこまでも基礎概念として依拠するものでした。

ではモンテリウスの実践における型式概念とはどのようなものだったといえるのでしょうか。剣(ここでは長剣と短剣からなる)を引き合いにだせば、<剣という単一カテゴリーにおける諸形態(小型式)の共伴関係によって導かれる時期区分の指標>といえるでしょう。

私たちが馴染んでいる表現に換えますと、モンテリウスの型式概念は、山内清男の「型式」概念と一致し、小林行雄が唐古遺跡の報告書執筆を機に大幅な変更をおこなった後の「様式」概念(贄1991参照)に近いのです。須恵器の窯編年における「型式」ともほぼ一致します(日本考古学においては、指示内容はともかく用語法上は「様式」だけが孤立的に浮いてしまう点にも注意が必要です。土器という単一カテゴリーに「様式」を据えてしまうと、複数カテゴリー間の関係を総合して指示する上位概念を設ける際に困ったことになるからです)。

さらに言い換えますと、モンテリウスは「編年学」の基礎概念に「一括遺物」=<時期区分の指標>を置き、その下位概念として「型式」=<個別カテゴリーにおける時期区分の指標>を置いた、という図式になるのです。「共時性」概念にもとづく時期指標が階層化されている点は、とりわけ重要です。

そしてこのようにみてくると、モンテリウスが1903年著作で述べた「型式組列の一括遺物による検証」の記述内容にも、その後の時代の考古学研究者に誤解を与えかねない部分があった可能性が想起されてきます。他のカテゴリーに属する資料の型式組列との間の併行関係の検証については、『考古学研究法』などでも訳出され、広く知られている事項ですので改めて紹介するまでもないでしょう。

最大の問題は、組列を組みあげた同一カテゴリー内における共伴事例検証の記述や、型式区分をどこでおこなうかという指標の明示が抜けていることです。A-B-C-Dと組み上がったものを一括遺物に則して検証にかけるとなると、私たちがしばしば直面するのは(A+B)、(C+D)となったり、(A+B+C)、(D)となったりする事例です。モンテリウスはこうした事例を点検しつつ、前者のケースであれば(A+B)に対して1型式を、(C+D)に対して次の1型式を設定したはずですし、後者の事例については、(A+B+C)について1型式を、Dについて次の1型式を設定したはずなのです。

現実にはもう少し込み入った共伴事例となるでしょうから、その実践過程への記述が求められるのです。さらに型式区分は、共伴関係の有無に沿って引かれる境界線であるとの明示があれば、もっと理解しやすかったはずなのです。つねに共伴関係の有無が問題視され、一括遺物を崩さないという基本姿勢を堅持する以上は、型式区分はこうなるとの明示があってもしかるべきだったのではないか、そのように思うのです。

もちろん、1985年著作の記述では、そのあたりがしっかり明示されていますので、誤解を生じる余地がなかったのですが、エガースの1959年著作については、この問題についての解説がまったく不十分であったことを指摘せざるをえません。

なによりも奇妙に思うのは、エガースはモンテリウスの1885年著作『青銅器時代の年代決定について』の重要性を随所で言及しながら、肝心の第2章における型式学的研究法の紹介にあたっては、その具体像に踏み込まなかったことです。

当該部分は次のようになっています。「モンテリウスの最初の著書『青銅器時代の年代決定について』にもどろう。ここで彼の研究法がはじめて完全な形で記述されているが、型式学的研究法はこのモンテリウスの研究法のなかではその一部をしめているにすぎない。そして、この著作が相対年代のみでなく、絶対年代決定の指針にもなったのである。
 型式学的研究法を紹介するには、しかし、『研究法』と題された有名な1903年の著作によろう」(エガ-ス同書、88・89頁)と。

前段において1885年著作が重要であることを紹介しつつ、「しかし」以降の文章のつながりが不自然なことは、おわかりいただけるものと思います。しかも完全な形で記述された著作であったのに、そこに占める型式学的研究法が一部でしかないというのも不可思議な記述です。むしろ素直に理解すれば「完全な形で記述された著作は、すでに型式学的研究法にはほとんど依拠しないものとなった」となるのに、です。なぜエガースはそのような論述の展開を選択したのか、それは今のところ不明です。

ただし1885年著作を回避したことによって、エガ-スはモンテリウスの編年学における時期区分と型式区分における階層的位置づけや、実践過程の内容を紹介しなかったことだけは事実です(なお交差年代決定法については第3章で詳述されており、そこでの適確な紹介があることを同時に認める必要もありますが)。

もとよりモンテリウス自身も読者に誤解を与えやすい1903年著作を記したことにより、型式学的研究法を実践上の有効性とは異質な“抽象画”にしたてあげてしまった、といえるのかもしれません。もちろん深読みをすれば、層位的関係が把握できないという制約された環境下においてさえ、型式学的研究法という武器があるという主張を展開したのだともとれるかもしれません。しかし一括遺物の束については、すでに研究環境上整っている状況を前提とした上での立論ですので、やはり不可思議です。

以上、3回にわけて解説してきましたが、型式学と編年学にまつわる学史と問題状況の一端を、先の『古墳時代の考古学』第4巻の総論では紹介してみました。とはいえ1885年の著作の英語版は、私の自力発見ではありません。私は2002年に、当時京都大学総合博物館にいらっしゃった山中一郎先生から1885年著作の存在を教えられ、コピーを賜わりました。それがきっかけです。しかしながら英書であることもあって、その後長らく「積ん読」状態だったのですが、先の総論を執筆する段になって初めて本書を読み、その内容の重要性に気づかされたという次第です。これまでの私の怠慢を、山中先生には深くお詫びしなければなりません。

そうした反省もあって、現在小茄子川歩君に翻訳作業をお願いしており、できれば同成社から日本語版を出版したいとも考えています。

そして先日、九州大学の溝口孝司さんに本書の位置づけを打診してみたところ、彼にとっても「完全なノーマークでした」とのコメントを受けました。現在時間を見つけては精読中だとのことですので、いずれ溝口さんからも適宜コメントをいただけるかと思います。したがって今後の日本考古学界においても、1885年著作は再評価に値する重要文献として再浮上することになる可能性が高いと思います。

どこかの大学ですでに外書購読などで取り扱われているのであれば、また、すでに1885年著作をお読みで、それをふまえた日本語による先行研究があれば、情報提供をいただきたく思います。

引用文献 
贄 元洋1991「様式と型式」『考古学研究』第38巻第2号

モンテリウスの型式学と編年学(その4)

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これまで3回にわけて、型式学と編年学にまつわる学史の問題を点検してきました。ではこの一連の問題は、学史整理に特化させるべき過去の話でしょうか。そうではないとの確証をえたものですから、この記事を起こした次第です。問題状況の一端を、最近活性化のきざしを見せている古墳の編年論に注視しつつ、概観してみたいと思います。

ここで大賀克彦氏に登場願うことになります。彼は2013年1月に開催された播磨考古学研究集会において、時期区分の問題を取り上げ、副葬品については三角縁神獣鏡、帯金式甲冑、須恵器を指標に据えれば有効性が高いとの理解を前提に掲げ、諸要素の段階区分と接続、弥生時代との区分など詳細にわたる編年案の骨子を論じているのでが、その過程で森下章司さんの時期区分論との差違に触れ、次のように述べています。

「以上に確認してきたような時期区分の方法を森下(2005a)の方法と比較するならば、極めて根本的な相違が存在する。森下の方法においては、時期区分と時期比定とが意図的に等値されている点には既に言及したが、これは理想的な変遷モデルと実態的な変化の同一視と言い換えることができる。また、極端な漸移変化主義的な世界観も挙げられる。ただし、これが資料の実態と整合しないことは、森下自身が『様相』もしくは『組み合わせ』として事実上の『段階』を認定してしまっていることからも明らかである」(大賀2013、65頁)と。

ここで紹介された森下論文とは、森下章司2005「前期古墳副葬品の組み合わせ」『考古学雑誌』第89巻第1号をさします。

上記の引用文において注目したいのは、大賀さんが指摘する「理想的な変遷モデル」と「極端な漸移変化主義的な世界観」および「資料の実態」との関係です。前回述べた問題に引きつければ「共時性」を示す一括遺物の束、すなわち<繰り返し現れる諸型式の共伴関係>が「資料の実態」ということになります。

いっぽう「理想的な変遷モデル」とは、現実には具体的事例を指摘できるとは限らないものの、統計的な操作を積み重ねた結果、「共時性」が充分に担保できる諸カテゴリー間の共伴関係を意味する、と理解できるでしょう。

問題は「極端な漸移変化主義的な世界観」ですが、それは型式学的研究法の背後に作動しやすい志向性ないし思想的な側面のことをさすものと理解されます。大賀さんはそのような思想が「資料の実態」とは乖離していることに目を向けるべきだ、と主張しているのです。この点については後に触れることとして、先の引用文に続き、森下さんとの方法論の違いを解説した文章が展開されますので、具体的にみてみましょう。

森下論文との「方法論の原理的な相違は構築される時期区分に実質的な相違をもたらすので、簡単な思考実験を示しておこう。系統的な一体性に疑問の余地がない要素AとBを考え、それそれが連続する時間単位となるA1とA2、B1とB2に細分されるとする。1要素系のモデルにおいて、実際の事例に(A1のみ)、(A1+A2)、(A2のみ)という3種類がすべて出現するとき、森下ならば(A1のみ)→(A1+A2)→(A2のみ)の順に並列すると考えられるが、筆者は(A1のみ)→(A1+A2、A2のみ)の2段階しか認めない。(A1+A2)のA1は伝世品で、時期区分上はノイズでしかないからである。また、2要素系のモデルにおいて、(A1+B1)や(A2+B2)以外に(A1+B2)や(A2+B1)が出現する場合の取り扱いも異なるであろう。筆者の枠組みでは、(A1+B2)や(A2+B1)の出現頻度がともに充分に低いならば、(A1+B2)におけるA1や(A2+B1)におけるB1は伝世として捨象され、一方の頻度が有意に高いならばA1→A2とB1→B2の変化に時間差を認定し、ともに高いならば時間的な細分単位であるとう前提を疑うことになる。しかし、森下がこうした状況をどのように取り扱うかは明確でない」(大賀同書、65頁)とあるのです。なお本引用文の最後段には註17が付されており、それをみると「森下は、長期保有・伝世の発生しやすい要素と、その可能性が乏しい要素の相違に言及しているので(森下2005a、15頁)、要素の重み付けの導入を示唆しているかもしれない」(大賀同書、90頁)とあります。

最新の研究動向をみても、じつは前回までに示した内容と響き合う部分が大きいことを確認できるはずです。上の引用文について、原則的にいえば大賀さんの主張に私も同意します。A1型式とA2型式という2タイプが抽出された状況のもとで、はたして3時期(3段階)が導かれるかどうか、という設問だと理解されるからです。移行期という中途段階の時間幅を対等に取り扱うべきかが問われているのであり、それを否と判断するわけです。型式区分が単一カテゴリー内における時期区分の指標になるという理解を敷衍すれば、2型式から3時期は導けないとするのが原則だからです。

ただし註17にもあるとおり、要素間に伝世のしやすさ、しにくさを考慮するとなると、上記の原理・原則だけに委ねるわけにもいかず、要素ごと、あるいは地域性をも考慮したうえでの入念な点検作業と仕分けが必要になるのです。

そしてこうした課題の根幹をなすのは、資料の実態としての一括資料の束であることも明らかで、基礎概念としての重要性がきわだってもくるのです。ようするに現時点の最先端をゆく議論においてさえ、一括資料間の入念な点検作業が求められ続けていることをご確認いただければ幸いです。当たり前といえば当たり前ですが。

本連載記事の最後に「極端な漸移変化主義的な世界観」についての解説をおこないます。じつは私自身も鍬形石に対して型式学的研究を実施した際、この漸移変化主義に囚われていました。

大賀さんの例示になぞらえて表現すると、Aの系列において5段階の形態変容が認められ、それが大筋で1→5と変化することが確認されたとした場合、1と5の間の諸形態に対し、暗黙裏のうちに2→3→4を挿入させたのです。そう考えるのが自然であるとの期待値がそれを下支えもしました。しかし資料の実態(ここでは共伴関係の束)において、それを証明する様相は未確認でした。実態は1(2)→3・4→5でしかないのです。括弧は群として成立するか不明の段階設定です。つまり資料の実態として未確認であるものを、ある種の期待値に委ねて挿入してしまった、それが漸移変化主義の正体です。

こうした志向性のことを大賀さんは強く戒めており、資料の実態をみよ!と主張しているものと私は理解しました。だから抜本的な再検討が必要だと考え直しているのです。大賀さんの論文をみて、改めて反省させられ、モンテリウスにまで溯ってみて、型式学的研究とは何かを点検してみた次第です。私と類似した間違いを若い世代の研究者が繰り返さないためにも、との意図を込めて、この連載記事を書きました。

以上です。これでようやく型式学と編年学の問題に区切りをつけることができ、明日からの北海道資料調査に出向けそうです。

引用文献 
大賀克彦2013「前期古墳の築造状況とその画期」『前期古墳からみた播磨』(第13回播磨考古学研究集会の記録)

追記 今回紹介した大賀論文(2013 )が収録された『前期古墳からみた播磨』は、他の掲載論文ともども非常に読み応えがあって、若い世代の研究者には特にお勧めします。今後の議論の活性化を導く起爆剤になるものと確信します。本シンポジウムを主催された岸本道昭さんにも敬服します。
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