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先に紹介したエガースの著作『考古学研究入門』の中で、読者の目を引きつけるのは、本文95頁に掲載された第7図です(上段の写真)。「モンテリウスの型式学と編年案」と題されたこの図は、本書の表紙にも貼りつけられていますので、「ああ、あれか」と思い出される読者も多いのではないでしょうか。
この図はしかしモンテリウス本人の作業結果とは異なるのです。エガースが簡略化して図化したものだからです。
1885年の著作から私が改めて作成しなおした編年表を2段目にアップしましたので(縦横の関係が揃ってはおらず恐縮ですが)、両者を見比べてみてください。
エガ-スが行った重要な変更点は、型式名の単純化、および置き換えと代表遺物の明示です。たとえば1期の剣について、モンテリウスは有機質の柄が装着された、短剣のみからなるa.b.cの3型式を併記していますが、エガ-スはただ「A型式」と置き換え、先の3型式のなかからa型式(イタリア製の搬入品と推定された資料群の一部)を抜き出し図示したのです。さらに2期のところには、モンテリウスがe.A.Bの3型式を並列させたのに対し、エガ-スは「B型式」と置き換え、図示したものはB型式(中欧ないし北欧製と推定された資料群中の最古型式)です。こうした型式名の単純化と置き換えによって、たしかにシンプルな編年表にはなっているのですが、次に示すふたつの重要な事柄を捨象してしまったのです。
まずモンテリウス本人は、a型式やA型式など古段階の資料を南方からの搬入品だと明記しており、B型式以降の摸倣型式からなる系列とは明確に識別しています。つまりA型式までの組列とB型式以降の組列とは別立てに置いているのです。しかしそれらを縦一列に並べてしまうと、対応する本文の性格上、読者はモンテリウスがこれら諸型式を一連の組列として組み上げたのではないか、と誤解してしまう危険性を孕むことになります。他のカテゴリーの諸型式についても同様です。
本来は考古学的実態(搬入品の諸型式と摸倣品の諸型式、材質転換、地域性)を丹念に汲み取りつつ作成された編年表だったのに、読者に対する読みやすさへの配慮でしょうか。そうした1885年著作では備わっていた緻密さや入念さが完全に払拭され、1903年著作の内容を可視化しつつ解説するための図へと改変されたことがわかります。
次に各型式は、私たちが馴染んでいるような「内部において斉一性を示す」(贄1991より)資料の一群ではありません。一括遺物としての出土状況を勘案した結果、明らかに形態変容上の段階差をもつ数群をまとめているのです。先に示した剣のA型式の場合には、柄と刃部の装着部にみられる半円形の切り込みa形態とb形態の2群の資料を内包します。B型式にいたっては、この半円形の切り込みc形態、d形態、e形態の3群で構成されているのです。
つまりこれら2群ないし3群からなる諸資料は、「斉一性」ではなく「共時性」(贄1991より)によって一型式にまとめられた、という関係にあるのです。ですから、単一の資料を代表遺物として提示するわけにはいかないはずだったのです(なお、これら諸形態の様相については『考古学研究法』(濱田訳1932)の58頁と59頁にイラストとして掲載されていますので、興味のある方はご確認ください)。
今述べた二つの重要事柄を除外し図化したところで、はたしてモンテリウス編年学の神髄が可視化されたことになるのかどうか、読者の方々にも是非お考え頂きたく思います。つまり第7図とは、モンテリウス編年学の実践において重視されたエッセンスを排除することで、彼がまだ闇中摸索状態であった時点の状況の再現を意図したもの、ともとれるのです。もちろんこのような性格の図では、モンテリウスの編年学を紹介したことにはなりませんし、どこか別のところにある、異質な志向性ないし思想を表明した図であるかにもみえてしまうのです。
モンテリウスが実際におこなった編年学は、エガ-ス自身が記述するとおり、つねに「一括遺物」を重視し、それを分割することなく、どこまでも基礎概念として依拠するものでした。
ではモンテリウスの実践における型式概念とはどのようなものだったといえるのでしょうか。剣(ここでは長剣と短剣からなる)を引き合いにだせば、<剣という単一カテゴリーにおける諸形態(小型式)の共伴関係によって導かれる時期区分の指標>といえるでしょう。
私たちが馴染んでいる表現に換えますと、モンテリウスの型式概念は、山内清男の「型式」概念と一致し、小林行雄が唐古遺跡の報告書執筆を機に大幅な変更をおこなった後の「様式」概念(贄1991参照)に近いのです。須恵器の窯編年における「型式」ともほぼ一致します(日本考古学においては、指示内容はともかく用語法上は「様式」だけが孤立的に浮いてしまう点にも注意が必要です。土器という単一カテゴリーに「様式」を据えてしまうと、複数カテゴリー間の関係を総合して指示する上位概念を設ける際に困ったことになるからです)。
さらに言い換えますと、モンテリウスは「編年学」の基礎概念に「一括遺物」=<時期区分の指標>を置き、その下位概念として「型式」=<個別カテゴリーにおける時期区分の指標>を置いた、という図式になるのです。「共時性」概念にもとづく時期指標が階層化されている点は、とりわけ重要です。
そしてこのようにみてくると、モンテリウスが1903年著作で述べた「型式組列の一括遺物による検証」の記述内容にも、その後の時代の考古学研究者に誤解を与えかねない部分があった可能性が想起されてきます。他のカテゴリーに属する資料の型式組列との間の併行関係の検証については、『考古学研究法』などでも訳出され、広く知られている事項ですので改めて紹介するまでもないでしょう。
最大の問題は、組列を組みあげた同一カテゴリー内における共伴事例検証の記述や、型式区分をどこでおこなうかという指標の明示が抜けていることです。A-B-C-Dと組み上がったものを一括遺物に則して検証にかけるとなると、私たちがしばしば直面するのは(A+B)、(C+D)となったり、(A+B+C)、(D)となったりする事例です。モンテリウスはこうした事例を点検しつつ、前者のケースであれば(A+B)に対して1型式を、(C+D)に対して次の1型式を設定したはずですし、後者の事例については、(A+B+C)について1型式を、Dについて次の1型式を設定したはずなのです。
現実にはもう少し込み入った共伴事例となるでしょうから、その実践過程への記述が求められるのです。さらに型式区分は、共伴関係の有無に沿って引かれる境界線であるとの明示があれば、もっと理解しやすかったはずなのです。つねに共伴関係の有無が問題視され、一括遺物を崩さないという基本姿勢を堅持する以上は、型式区分はこうなるとの明示があってもしかるべきだったのではないか、そのように思うのです。
もちろん、1985年著作の記述では、そのあたりがしっかり明示されていますので、誤解を生じる余地がなかったのですが、エガースの1959年著作については、この問題についての解説がまったく不十分であったことを指摘せざるをえません。
なによりも奇妙に思うのは、エガースはモンテリウスの1885年著作『青銅器時代の年代決定について』の重要性を随所で言及しながら、肝心の第2章における型式学的研究法の紹介にあたっては、その具体像に踏み込まなかったことです。
当該部分は次のようになっています。「モンテリウスの最初の著書『青銅器時代の年代決定について』にもどろう。ここで彼の研究法がはじめて完全な形で記述されているが、型式学的研究法はこのモンテリウスの研究法のなかではその一部をしめているにすぎない。そして、この著作が相対年代のみでなく、絶対年代決定の指針にもなったのである。
型式学的研究法を紹介するには、しかし、『研究法』と題された有名な1903年の著作によろう」(エガ-ス同書、88・89頁)と。
前段において1885年著作が重要であることを紹介しつつ、「しかし」以降の文章のつながりが不自然なことは、おわかりいただけるものと思います。しかも完全な形で記述された著作であったのに、そこに占める型式学的研究法が一部でしかないというのも不可思議な記述です。むしろ素直に理解すれば「完全な形で記述された著作は、すでに型式学的研究法にはほとんど依拠しないものとなった」となるのに、です。なぜエガースはそのような論述の展開を選択したのか、それは今のところ不明です。
ただし1885年著作を回避したことによって、エガ-スはモンテリウスの編年学における時期区分と型式区分における階層的位置づけや、実践過程の内容を紹介しなかったことだけは事実です(なお交差年代決定法については第3章で詳述されており、そこでの適確な紹介があることを同時に認める必要もありますが)。
もとよりモンテリウス自身も読者に誤解を与えやすい1903年著作を記したことにより、型式学的研究法を実践上の有効性とは異質な“抽象画”にしたてあげてしまった、といえるのかもしれません。もちろん深読みをすれば、層位的関係が把握できないという制約された環境下においてさえ、型式学的研究法という武器があるという主張を展開したのだともとれるかもしれません。しかし一括遺物の束については、すでに研究環境上整っている状況を前提とした上での立論ですので、やはり不可思議です。
以上、3回にわけて解説してきましたが、型式学と編年学にまつわる学史と問題状況の一端を、先の『古墳時代の考古学』第4巻の総論では紹介してみました。とはいえ1885年の著作の英語版は、私の自力発見ではありません。私は2002年に、当時京都大学総合博物館にいらっしゃった山中一郎先生から1885年著作の存在を教えられ、コピーを賜わりました。それがきっかけです。しかしながら英書であることもあって、その後長らく「積ん読」状態だったのですが、先の総論を執筆する段になって初めて本書を読み、その内容の重要性に気づかされたという次第です。これまでの私の怠慢を、山中先生には深くお詫びしなければなりません。
そうした反省もあって、現在小茄子川歩君に翻訳作業をお願いしており、できれば同成社から日本語版を出版したいとも考えています。
そして先日、九州大学の溝口孝司さんに本書の位置づけを打診してみたところ、彼にとっても「完全なノーマークでした」とのコメントを受けました。現在時間を見つけては精読中だとのことですので、いずれ溝口さんからも適宜コメントをいただけるかと思います。したがって今後の日本考古学界においても、1885年著作は再評価に値する重要文献として再浮上することになる可能性が高いと思います。
どこかの大学ですでに外書購読などで取り扱われているのであれば、また、すでに1885年著作をお読みで、それをふまえた日本語による先行研究があれば、情報提供をいただきたく思います。
引用文献
贄 元洋1991「様式と型式」『考古学研究』第38巻第2号