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Channel: 私的な考古学
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今年初めての積雪

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このようなことを書くと北国の方々には怒られてしまいそうですが、今年、丹沢山麓にも初めて雪が積もりました。といっても降雪自体は何度目かで、今朝積もったのもわずか5cm程度ですが、今回は朝になっても溶けることがなく、ようやく一面の雪景色となりました。

先週末に郷里の伊那谷に帰ったときにも一面の雪景色で、久しぶりの白一色の風景に感動を覚えたのですが、自宅の近辺もようやく冬らしい景色に包まれて一安心です。もちろん立春を過ぎた今になっての降雪ですから、多くの方々にとっては迷惑な雪なのかもしれません。

昨日は日帰りで京都大学にお邪魔し、阪口英毅さんにお世話いただきました。京都も寒いところで、ひょっとすると丹沢山麓以上の寒さに見舞われているのではないか、とさえ思われました。

用事を済ませてから娘に電話をしてもつながらず、応答が返ってきたのは、すでに静岡駅まで帰り着き、小田原に停まる「こだま」を待っていた頃。部活に邁進していると聞いて少し安心。

相前後して阪口さんからは「傘をお忘れですよ」とのメールが入りました。歳ですね。

この雪で杉花粉が舞うことなく地面に落ちてくれることと、はやく春になることを待つばかりです。

吉留秀敏さんの訃報

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本日3月5日、吉留秀敏さんが亡くなられたとの訃報がもたらされました。

出張からの帰路、小田原に着いて携帯を見れば不在着信の山と留守電アリの表示。発信者の方々のお名前をみて悪い予感はしたのですが、やはりそうでした。動揺して言葉もなく、その後自宅までの記憶がはっきりしません。

先週、無理をしてでもお見舞いにいくべきだったと後悔しています。これまで本当にお世話になったことへの御礼をしたかった。

吉留さんには、私が大学1年生として岡大に入学した時から今までの実に35年間、本当にお世話になりました。考古学をどうのように捉えたら面白いのかを教えられたのも吉留さんからでしたし、発掘調査現場でいかにあるべきかを身を以て教えてくれたのも吉留さんでした。あの輝く眼差しとエネルギーに満ちた行動力には、入学直後から完全に参ってしまい、私にとって強い憧れの対象でもありました。

学生時代にはお金がなかったので、常に酒をおごってくださり、行政発掘参加厳禁令下、秘かに九州の須久岡本4丁目遺跡を紹介してくださったのも吉留さんでした。大分県に就職されていたときには下宿に転がり込んで、いったい何ヶ月お世話になったかもわかりません。正月にはご実家で居候もさせていただきました。福岡市に移られたその後も、福岡に行ったときには必ず泊めていただきました。

なによりも吉留さんと行動を共にすることが楽しかったし、誇らしくもありました。周囲の空気が明るくなるし、同じ方向を向く方々を折りに触れて紹介してもいただきました。そのようにして広がってきたつながりが、確かに今の私を支えています。

私が常に慕うので、かわいがっていただいたことも確かだと思います。私は吉留さんの子分でしたし、そうあることが楽しかったのです。私ほど極端ではなくとも、吉留秀敏さんに接し、同じように感じられた方も少なくないのではなかろうか、そのようにも思います。

ともかく、明日の会議等はすべてキャンセルできましたので、朝、鹿児島に向かうことにします。悲しいお別れになるものと思います。心から尊敬する大先輩に、ありがとうございましたと申し上げたかった。

吉留秀敏さんとのお別れ

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去る3月6日にあった吉留さんの御通夜と、翌7日に執り行われた葬儀に参列してきました。比較的時間をかけてお別れができたように思います。

亡骸との対面というのはもちろん辛いものですが、どうしようもなく気持ちは急かされて、つい言葉をおかけしてしまうし、感情を制御できない自分に狼狽してしまいます。しかしそのような機会を逃したとすれば、強い後悔の念が残っただろうとも思います。

さらに25年ぶりぐらいになるでしょうか。立派な大人になった息子さんと娘さんにお会いした際には、込みあげてくる感情を抑えきれず、途中から言葉が続きませんでした。

通夜の席ではおもいがけず西田茂先生とご一緒することになり、お声をかけてみれば「今日は近くに泊まるのだろう。ちょうどよい。ワシもホテルを取るから今夜は呑もう!」ということになりました。西田先生は出水高校のご出身で、吉留さんが高校生の頃には広島大学生として、地元で行われた調査に参加し、兄貴分として指導にも当たっていたという間柄。先生からのお誘いは、私にとっても救いでした。そしてしみじみとですが、思い出話を聞かせていただいたり、北海道の話題なども交えながら、閉店まで呑み続けました。

6日も7日も暖かすぎるほどの気温と晴天に恵まれました。葬儀もしめやかに行われ、火葬場への出棺の見送りを済ませて帰路につきました。岡大関係者で参列された方々は丹羽野夫妻と田中裕介さん、平井典子さんでした。ここでも助かったのは、帰路が独りではなかったことです。博多までは裕介さんとご一緒し、岡山までは典子さんとご一緒できたからです。

もう少しだけでも時間が与えられていれば、吉留さんのことですから、もっと活躍できたはずです。いろいろと手がけられていましたから、それを半ばにして終えてしまうことは、さぞ無念だったのではないかと推測してしまいます。

当然のことながら、私も残りの人生の時間の長さを考えさせられます。長くても20年程度でしょうし、普段の不摂生を考えるともっと短いことも当然ありうるわけですから、そろそろまとめに取りかからないと時間切れになってしまうかもしれな、とも思います。

ただし、です。もし冥界というものが実際にあって吉留さんが到着していたら、私が行く前にそこらじゅうを掘りまくり「冥界の考古学的研究」に邁進しているに違いないとも思います。それと、もし冥界にも車があったら絶対に路地内を暴走しまくっているでしょうし。そうなればそうで、再会が楽しみになるのかもしれません。

そんなことをつらつらと思い巡らせながら帰宅しました。

島嶼部考古学の集い

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記事のアップが前後しましたが、去る3月4日と5日の2日間にわたり、関西外国語大学を会場にして表題の研究集会が開催されました。

慶応義塾大学の山口徹さんからのお誘いを受け、私は西表島網取遺跡での調査状況や今後の課題について報告させて頂くことになりました。網取遺跡の調査は、近森正先生の『サンゴ礁の景観史』(慶応義塾大学出版会)に学びながら調査を進めてきたという経緯がありますし、お弟子さんでもある名島弥生さんの助言を受けつつ貝塚調査を進めてきたわけですから、素性はともかく、私はいわば近森先生の「隠れ孫弟子」筋。そんなこともあって、直弟子の山口さんからのお誘いとなりました。

1日目は山口先生と環境研の山野博哉さんからの報告。山口先生の石垣島での環境史復元は、さすがに入念なデータ収集と解析に依った緻密な研究戦略をとられていることを教えられました。またサンゴ礁の専門家である山野さんの報告は「地球温暖化によるツバル環礁水没」問題の実態解析でした。要するに人口増や湿地開発など複合的な要因が絡んでいて、単純な海水準の上昇ではないことを教えられました。

2日目は、私の発表と沖縄県立博物館の片桐千亜紀さんの発表、それに関西外大の片岡修先生によるジャワ島とポンペイ島の発掘調査概要報告でした。片桐さんの報告は、どの学会でも聴衆の興味を惹きつけるとのもっぱらの噂(たとえば近世考古学の学会で、妻は片桐さんが報告されるときには絶対に逃さないという)ですが、その噂に違わず、狩猟採集経済段階における具志川島の特性に焦点を当てた、みごとな研究成果を紹介してくださいました。目から鱗とはこのことをいうのでしょう。きわめて魅力的な仮説でした。少し見方を換えれば八重山にも充分に当てはまると思いました。

さらに片岡先生の報告は、出土遺物を実際に手にとって見せていただけたこともあって、興奮させられました。要するに非常に充実した研究集会でした。発表者を除く参加者は4名という、ごく小規模な集会でしたが、個人的にはきわめて有意義かつ充実した会でした。

島嶼部に照準を絞った考古学・人類学・文献史学・民俗学の領域横断的な研究会が出来上がればきっと楽しいに違いない、そう確信させられた機会でもありました。若手の研究者も育ちつつあるようで、今後が楽しみです。お誘いいただいた山口さんに感謝です。

余談になりますが、2010年の夏には、吉留秀敏さんにも網取遺跡に来ていただき、調査現場の様子をご覧頂けました。このことは、唯一の恩返しになったかもしれないと今になって思います。吉留さんが息を引き取られたという時刻に、ちょうど私は本研究会で網取遺跡の調査成果を報告中でした。

吉留さんは、旧石器や古墳の専門家というだけでなく、初期水田の専門家でもありました。特に灌漑施設には造詣が深く、三苫永浦遺跡の溜井灌漑や元岡遺跡の溜池などは、調査現場で直に教えていただきましたし、吉留さんが解明された3パターンの用水路のありかたは、網取遺跡の調査でも常に参照させていただきました。さらに明和大津波の問題を現場で議論できたことを思いますと、吉留さんに与えて頂いたさまざまなヒントを、よりよく活かす責務は私にあることを再認識させられてもいます。

花粉が飛び交う季節に

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今年も大変な季節が到来しました。妻と私、毎晩(というか午前4時台に)猛烈なクシャミと目のかゆみに悩まされています。

そんななか、去る3月8日夕刻には、市ヶ谷の旧私学会館にて講演をさせていただきました。なんと長野県伊那北高等学校同窓会関東支部からの依頼で驚きましたが、東京近隣にも各方面でご活躍中の先輩や同輩が居るもので、今回は大先輩でもある山口昌美さんからのご推薦で、私に白羽の矢が立てられたとのことでした。

考古学関連の方々にとって、山口さんのお名前はご記憶の方も多いと思います。2000年11月5日に発覚した、かの旧石器ねつ造問題の騒動の渦中にあって、脂肪酸分析がまやかしであると最初に指摘なさった方です。食品科学がご専門の山口さんは、当時考古学界で注目されていた「日本における脂肪酸分析」が偽科学であることを見破り、議論を呼びました。当時の私は妻に叱られながらも夜な夜なネット上の議論に参加し、山口さんのご指摘に注目した一人でした。よもや高校の大先輩だとはつゆ知らず。

そのような経緯のもとでの講演依頼でしたので、私の題目は「旧石器ねつ造問題と今後の日本考古学」とさせていただきました。20名弱の小規模な集まりでしたが、当時の話題や今後の課題としてネット上で議論した話は決して過去ではないことをお話しさせていただきました。この問題の余波を受けたN.G.マンローコレクションとの関わりや、「日本史」という枠組みを超えた歴史をどう構築すべきか、について、大先輩である山口さんに私の考え方を直接お聞き頂けたことが最大の収穫です。写真の上段は、自宅に保存してあるあの朝の朝刊です。プレゼンの資料として引っ張り出しました。

翌9日は、「近藤英夫先生を囲む会」と銘打つ退職記念パーティー。町田で開催されました。こちらの会は非常に盛況で、神奈川県下の業界人が世代を問わず数多く参集してくださったほか、沖縄からも卒業生が駆けつけ、近藤先生がいかに多くの方々から愛された?君臨された?のかを強く印象づける会となりました。

この3月で私も専攻主任の任期を終え、4月からは松本建速さんが主任になります。ですからわが東海大学考古学専攻も大きな世代交代期を迎えます。とはいえ、近藤先生には4月以降も特任教授として後進の指導に当たっていただくことになっています。近藤先生にはご自愛のほどを、と、お祈りします。なおこちらの会へはカメラを忘れてしまいましたので、写真をアップできません。

なお2次会では中山誠二さんと小茄子川歩君を相手に、O.モンテリウスの再評価が非常に重要であることを強調して、幸い賛同を得ることができました。日本の考古学界はモンテリウスの業績を誤解してきた(可能性が濃厚である)ことを明らかにし、求められる方法論とはなにかを解明し直す、というこの新たな課題も、お二人の支援を受ければ心強いと思いました。

そして昨日11日は、伊勢原市の現場を諏訪間(弟)さんのご案内で見学させていただきました。中世室町期の遺構が検出されている現場です。この現場に限らず、伊勢原市は各所で調査現場が目白押し。まるで1980年代の広域調査を連想させるかのような有様には驚かされました。

とはいえ、現場の写真には花粉が写り込んでいるかのようで、本当にこの季節は、外出が恐ろしく思えてしまいます。

発掘調査が証す歴史津波の実態

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昨日16日は、青山学院大学で開催された沖縄防災環境学会シンポジウム「発掘調査が証す歴史津波の実態」に行ってきました。明和大津波による災害痕跡の実態把握を目指す、考古学と防災科学の共同研究会でした。

会場が青山学院大学になった理由は、三上次男先生が宮古島の友利元島遺跡を発掘調査されてから今年で40年になる、という事実と、その遺跡で明和大津波の津波堆積が発見されたという「由来」にちなんでのことと伺いました。

沖縄県域で現在確認されている同津波堆積(災害痕跡)は大きく分けて3遺跡。先の友利元島遺跡が最北端で、この遺跡は宮古島の南東海岸付近にある先島先史時代後期から近世までのもの。ここでは海岸砂丘上に多量の枝サンゴや貝殻を含む堆積が検出されています。

次は石垣島東部の新空港予定地近隣の嘉良嶽周辺。嘉良嶽東貝塚、嘉良嶽東方古墓群、盛山村跡、白保竿根田原洞穴遺跡の4地点です。ここでは地震によって生じた地割れの内部に多量の枝サンゴや貝殻類が充填された状態や、それら地割れ痕を完全に被う、やや構成粒子の細かな枝サンゴや貝殻片の堆積(嘉良嶽東貝塚の場合)などが確認されています。石垣島の東側海岸一帯は、津波の波源にも近く、甚大な被害を被った地区ですので、巨大な津波石が点在する様相とともに、実際の遺跡調査で、津波堆積が確認されているのです。

そして最後は西表島西部の網取遺跡となります。近世前半に造成された水田遺構が厚いシルトで被われた時期判定の結果と、同村に残された津波伝承との一致から、同津波に関連する堆積の可能性を想定したものです。

当日の考古学側からの報告は、それぞれの遺跡を実際に担当なさった盛本勲さん、久貝弥嗣さん、山本正昭さん、の3名の研究者でした。テーマの重要性だけでなく、どなたもよくお世話になっている方でしたから、これは聴かなければならないと思い、参加した次第です。このシンポが開催されることは、浦添市教委の安斎英介君がメールで教えてくれました。安斎君にも感謝です。

上記3遺跡のなかに、私たち東海大学が調査を実施している網取遺跡を加えていただいた盛本さんや山本さんにはありがたく思います。ただし網取遺跡については、他の2遺跡と異なって、現時点では埋没年代による推定に止まるという限界を抱え込んでいることです。波源の裏側へと回り込んだ津波によるものである可能性が高く、そのシルト層が津波関連堆積であることをどう実証するかという課題が残されています。

また、今回のシンポジウムでは、明和大津波以前の津波堆積が現存するか否かも話題となり、その解明が急がれる状況であることも学ばされました。

真に有意義なシンポジウムでしたし、コメントに立たれた青山学院大学の手塚直樹先生が上映されたスライドのなかには、内離島への船を操る青年時代の池田さんが写っていたのには驚きました。青年米蔵さんの写真と、青山学院大学で対面することになろうとは思いもよらず。歳月の流れを実感させられ、感銘を覚えました。

先月の24日には、鎌倉にて災害痕跡のシンポジウムが開催されましたし、考古学的調査の重要性も認知されつつあるものと感じます。

ただし昨日は、考古学関係の諸行事が重なっていたこともあったようで、会場への参加者が少なかったように思えたのが、少しばかり残念でした。

なお写真は、石垣島東部に点在する「津波大石」(大浜津波大石)です。巨大な珊瑚が根こそぎになって浜に転がり上がったものと推定され、放射性炭素年代測定が実施されています。脇にN谷君が立っているので、大きさの目安になるものと思います。そこから海岸に出てみると、さらに異様な光景が眼に入ってきます。大小の津波石が点在する様は、言葉に言い表せない衝撃を与えます。

わたべ淳著『遺跡の人』

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本日大学に出向いてみれば、西川修一さんからの郵便物が届いており、開いてみると本書が入っていました。秋に講演をお願いしたときから、彼が気にして探していた、という2008年に双葉社から刊行された話題の漫画です。

明治大学の校地内調査現場と東京大学の現場が舞台となっており、主人公はそれぞれの現場で「遺跡発掘作業員」として働いた中年の「元売れっ子漫画家」。仕事が取れなくなったためにやむをえず応募することになった発掘調査現場で、出会った人々の境遇と自分の境遇を重ねながら、流れゆく時間と追い込まれつつある自分への焦燥感が、絶妙な心理描写と情景描写のもとに描かれています。

帯には「透明感のある筆致で描く」とありました。なるほど、と感心させられる表現です。本書が凄いのは、さまざまな過去を背負った人々の奇妙な集団が発掘調査の現場を支えている、という現実の描写だけには止まらないことです。

発掘調査現場には相応の面白味があることや、漫画家である主人公が土層断面図の作成には向いている自分を見いだす場面、壁立ての妙技を競いたくなる心境、そしてマイ道具を持ち込むようになる様など、現場の匂いが鮮明に伝わってくるのです。哀愁ただよう現場の臨場感だけではないところに、本書の魅力があると感じました。

灼熱の現場の光景を描くところなどは圧巻で、流れ落ちて眼鏡を濡らす汗の感触さえも伝わってきました。そのような現場で汗を流しながら、ときにそのような苦痛は快感にさえ感じられることをしっかりと描きつつ、漫画家の仕事を取り戻したいとの焦燥感を描くのですから、このうえなくリアルです。

妻との別居を誘われている姿にも、他人事ではない危機感を感じます(もちろん、私自身はそのような危機感からはとりあえず免れていますが)。さらに現場の周囲を行き交う人々からは無視される状況の不思議さへの描写や現地説明会での小学生の質問内容への言及などには、作者の感受性の豊かさを感じました。

本書を読み進めると、私自身が学生時代に現場で感じたことや、空を仰いで夢と現実の著しいギャップに思い悩んだことなどが、リアルに重なって映るのです。だからこの本は、是非とも学生諸君にも読ませたいと思います。今夜はさっそく妻に見せようと思います。

当然リアルさを追求した漫画ですので、現実の考古学者も心理描写抜きでときに登場します。現場の終盤には近藤英夫先生の娘婿殿の横顔がリアルに描かれた画面が1枚だけ登場し、オオー!という場面もありました。

もちろん、今の私はこの漫画では決して描かれない「調査員」の側に立ち、考古学という「夢」に邁進できているはずの立場。幸運に幸運が重なったというだけのことかもしれませんが、学生時代の現場では、ここで描かれた主人公と心境的にごく近い立ち位置に居たことも確かですし、中年になった今は、この世界を魅力あるものにしてゆかなければならない責任を負ってもいることを改めて思い知らされます。

本来は、とある出版企画の「総論」を書くべく研究室に来たつもりでしたが、資料整理はそっちのけで、つい読みふけってしまい、さらにこの記事を書いてしまいました。アレルギー性の鼻炎と結膜炎に悩まされながらですが、これから本来の仕事に戻ることにします。

本書を送ってくださった西川さんに感謝します。

2012年度大学院学位授与式

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本日24日は、本学の大学院学位授与式でした。今年の文学研究科博士前期課程の総代は葉山茂英さんだったこともあり、私も初めて本体の式に参列してきました。

葉山さんは社会人入学の枠で2年前に私の研究室に入学なさったのですが、何分にも修士論文が最優秀かつ力作だったものですから、栄えある総代に選出されたという次第です。葉山さんは高等学校の社会科の教員をなさっていた方ですが、厚木高校の時代に足を踏み入れた考古学への魅力を絶ちがたく、退職後に改めて相模湾沿岸部の弥生時代後期社会に焦点を当てて研究を進めてくださいました。

その過程で着目され、悉皆調査に近いかたちで集成し、考察することになった分銅型土製品に関する葉山さんの修士論文研究は、それは斬新で、かつ興味深い研究成果となりました。4月以降は大学院研究生として、引き続き我が1研に通いながら修士論文を学術雑誌に投稿すべく書き直しの準備を進めてくれます。

授与式で総代として挨拶に立たれた葉山さんの「私は(3号館の各部屋の鍵を管理している)守衛さんのほうからいつも挨拶をされる身で、絶対に学生とは見られていない2年間を楽しく過ごさせていただきました」という言葉が印象的でした。そりゃそうです。私の研究室の平均年齢は最年少のMりちゃんとN谷を入れても48歳越えですから。

葉山さんには記念にとスコッチウィスキー(ハイランド・パーク)をプレゼントさせていただきました。修了、誠におめでとうございました。

さらに3研のM鍋さんも2研のT橋君も、揃って修了となりました。ふたりは正真正銘の若い世代。まだ二人とも就職未定とのことですが、世間の荒波にめげず頑張って欲しいと思います。文学研究科の学位授与式後に開催されたパーティーには、M鍋さんの同級生たちも駆けつけてくれ、華やいだ雰囲気となりました。仲良しで友人思いの面々にも感謝です。

唯一2研のH満君は、修論を書き上げるためにもう少し在籍することになります。彼も本腰を入れて頑張ってくれているようですから、今後に期待するところ大です。ともかく、大学院生のみんなもそれぞれに節目を迎えています。

そしてこの私も、ようやく6年間務めた専攻主任の任を解かれますので、いろいろな意味で節目を迎えつつあるように感じます。しかし着実に歳はとっています。

2012年度の卒業式

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本日25日は、今年度秋学期の卒業式でした。満開の桜を窓の外に映しながら、考古学専攻からは23名の卒業生を社会に送り出すことができました。

毎年恒例ですが、全体の式を体育館で終えた後に14号館に移動して、各学科・専攻ごとに証書の授与式となりました。

今年は担任の秋田かな子先生から卒業証書の授与を一人一人に対しておこなって頂き、その後各賞の授与式となりました。今年はM田さんのダブル受賞となりました。卒業生全員の笑顔が印象に残りました。

これからそれぞれの力量が真の意味で問われることになりますし、正念場は、じつはこれからですが、ともかく元気で、生きていって欲しいと思います。卒業生のみなさん、おめでとうございます。

1研の面々からは、空気清浄機をプレゼントされました。さすがは学生諸君、私がこの時期花粉症に悩まされていることをよく承知してくれています。どうもありがとう。

夕方に小田原の「だるま」を会場として開催された今年の謝恩会では、10数名の皆さんが私たち教員を招いてくれました。中年オヤジからすれば少しばかり申し訳なさを感じるところもありましたが、幹事のT山君を中心に、皆頑張ってくれました。心遣いに感謝します。

4月からは皆、今度は新人として社会に巣立つことになります。とにもかくにも、そしていろいろな意味で、幸多かれと祈ります。

六本木と二重橋前

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表題は本日立ち寄った地下鉄の駅名です。娘も帰ってきたことだし、と、本日は一家3人で上京し、森美術館の展示と三菱1号館美術館の展示を鑑賞してきました。

最初に見ることになったのは「会田誠 天才でごめんなさい」展。これは文字通り強烈でした。私が見知っていた作品も2点ほどはありましたが、それら2点だけでイメージしていたら、会田誠がどのような作家なのかはまず理解できなかったでしょう。素晴らしいタッチの美少女画や心象風景画のほか、段ボール製のオブジェやら作家自身が出演する映像展示やらも多数あって、刺激的な展示でした。

もちろん会田氏ならでは、の“危ない”作品も多数あって、「性描写が過激な作品が含まれますので、18歳未満の方のご入場はお断り」という、かの「犬」などを含む数々の問題作品を展示した部屋が、通常のルートとは別枠で併設された展示会。客層を含め、それはディープな展示でした。

次に入ったのは、隣接の森アーツ・センター・ギャラリーで開催されていたアルフォンス・ミュシャ展でした。妻と娘が以前から好きな作家でしたから、その版画を模写する娘の姿を通じて、否応なく馴染まされたという次第で、私などは完全な金魚のフン状態。

しかし会場に足を踏み入れてみれば、こちらの展示も力が入っており、私の中で勝手に創りあげてきた「美人画のミュシャ」という既成概念はガラガラと覆されていきました。前半は事前の予想どおりだったのですが、20世紀を迎えた頃以降のミュシャには、素直に驚かされました。スラブ民族の悲哀に向き合う感動的な一連の歴史画「叙事詩」を描いた以後、彼の「美人画」には深みと迫力さえもが備わったように感じられました。

以上の2展は、共に六本木ヒルズでの開催でしたが、森美術館の展示というのは、よくぞここまで!という誠に充実した内容で、感銘を受けたところです。遅い昼食を52階のラウンジでとった後、午後3時過ぎには「二重橋前」まで移動し、3番目の「奇跡のクラーク・コレクション」展を鑑賞しました。

こちらの展示は、じつは私の希望。19世紀末から20世紀初頭の「オリエンタリズム」を象徴する作品「蛇使い」や「奴隷商人」が来ていると聞いたからです。展示企画それ自体は、印象派の作品を柱にもってきたものですが、なにせ私たち3名は午前中にかなりディープな刺激を受けてきた身でしたので、印象派の作品群はほとんどパスし、「蛇使い」が展示してある部屋から以後の2室だけを、じっくりと鑑賞させてもらいました。

これは三人の一致した意見ですが、今回の順路はまさしく正解であって、その逆であった場合には、最後の会田誠展でそれ以前の印象すべてが上塗りされてしまい、クラ・コレ展などは完全に強制消去の憂き目にあっていたに違いなかった。そのように感じました。

最下段の写真は、娘が買い求めてきた図録と絵はがきです。受けた印象の強さが素直に反映された結果になっています。

夕方には新装なった東京駅と郵便局跡地を見学し、東海道線を通って帰路につきました。

1年間のサバティカル

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「サバティカルとは、使途に制限がない職務を離れた長期休暇のことで、長期間勤続者に対して付与され、少なくとも1ヵ月以上、長い場合は1年間となることもある。6日間働いた後、7日目は安息日とする旧約聖書のラテン語"sabbaticus" (安息日)に由来する。」とWikipediaでは解説されていました。

6年間の専攻主任教授を終え、ようやく私もサバティカルという名の研究特別休暇を取ることができました。したがいまして2013年度の1年間、私は晴れて完全offとなります。

そうはいっても研究に専念させてもらうための休暇ですから、調査と研究に邁進したいと思います。

夏の西表島の調査も、もちろん継続します。ただし2013年度は学部生の引率が叶わないので、学部生の諸君を連れて行くわけにはいかず、申し訳なく思います(野外行事の際の保険の問題です)。他大学の学生諸君や院生であれば、もちろん参加は可能です。

また秋10月1日からの後半の半年間は、奈良女子大学に研修員として在籍させて頂く予定で、娘のお下がりのマウンテンバイクを持ち込み、奈良盆地の遺跡めぐりや登山を画策しています。メタボ対策半分、研究目的半分です。

なぜ奈良なのか、といえば「東の山と西の古墳」と題した『考古学研究』59-4掲載論文のバックデータを充実させたいという理由と、この構想のさらなる発展形を考えているからです。本論もようやく活字になりました。写真は去年の6月2日(日曜日)撮影のものですが、妻と娘を巻き込んだGPS観測付きドライブ・ハイキングの成果が論文に仕上がったかと思うと、よい記念になるかと思います。

もとより、今回開示させていただいた問題は、これだけで終わるわけもありません。もっと壮大な全体構図のもとで理解するのが相応しいとも思います。そのような次第で、久しぶりに燃えています。非常に楽しみです。

なお2012年度秋学期の卒業論文基礎1受講生(新4年生)の皆さん、卒業論文関連の指導は松本建速さんに代行していただきますが、春学期中これまで溜め込んださまざまな宿題をこなすために、私は研究室にちょくちょく顔を出すことになりますし、研究室での原稿執筆も相変わらず進めるつもりですから、遠慮なく相談に来て下さい。さらに作業を1研で進めてもらっても一向に構いません。

西表島のメンバーについても同様です。1研を根城にしてガンガン進めて下さい。

2013年度の新入生

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本日の午前中に、今年の新入生との顔合わせとガイダンスを行いました。我が考古学専攻は今年、なんと37名の新入生を迎えることになりました。定員を7名オーバーしていますので、嬉しい悲鳴です。

あいにくの悪天候で、桜もはや葉桜気味になっていますが、ご入学おめでとう。そうはいっても土と汗にまみれてなんぼ、さらには忍耐力勝負の世界ですし、発掘調査はチームワークが大前提ですから、現在の期待値と現実とが一致する諸君ばかりではないかもしれません。

ともかく4年間を実り多きものにしていただきたいと心から願います。

ガイダンスは新主任の松本建速さんと担任となった秋田かな子先生の仕切りで進められました。休暇中とはいえ、私も顔を出して一言、新入生諸君に向けた期待を述べてきました。

今年は北海道から熊本まで、全国各地からの進学者が目立ちました。自己紹介の際には、例年どおり、まだぎこちなさと不安さが先に立って皆緊張気味でしたが、にぎやかで活発な学年になってくれればよいと思います。

霞ヶ浦探訪

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先週、妻と二人で茨城県の水戸、石岡、そして霞ヶ浦沿岸をドライブしてきました。同じ関東にあっても茨城県は遠く、水戸光圀ゆかりの地を実際に歩いてみたいとの思いをかなえるためと、これまで地図を通してでしか分かっていなかった古墳・遺跡や神社などの宗教施設の場所を確認することが目的でした。

鹿島神宮と香取神宮の位置関係も気になっていましたし、堺雅人ファンである妻の希望もあって、「塚原卜伝」ロケ地を探訪しようとの目論みも加わりました。要するに観光旅行です。

そうはいっても時間の関係で、肝心の水戸観光は茨城県立歴史館を訪れたに止まります。しかし初めて訪れる地の通史を知る上では絶好の展示でしたし、内容も充実していましたので、じっくり観ることになりました。

今回訪れたのは、順に震災の被害が痛々しく残る佐原の水郷、香取神宮、鹿島神宮、北浦の沿岸、大洗海岸、常陸国分寺跡、常陸風土記の丘(無料部分だけ)、三昧塚古墳など霞ヶ浦北岸の古墳、浮島などです。

今回の旅で圧巻だったのは、やはり浮島でした。じつは5世紀代の祭祀遺跡が気になっており、どんな立地かを確かめたかったのですが、現地に行ってビックリ。

もの凄く濃密な遺物散布地が広がる状態、としか言いようがなく、いたるところに土師器片や須恵器片が散在していたからです。最下段の写真には土師器の高坏が写っています(表採せずにそのままにしておきました)。もちろん時間の制約もあって滑石製模造品などは見つかりませんでしたが、5世紀の中頃から後半にあたる時期であることは間違いないようです。とはいえ日常生活用の甕類が多く、祭祀遺跡というよりは、大規模集落の中心部分であるかのような趣を呈していたことが気になりました。

この地、景行天皇が仮宮を建てたともいわれる場所ですから、おそらく4世紀後半には本格的な水運の拠点になっていた可能性が高いといえるのでしょう。やはり関東は広いし深い、そう実感させられた小旅行でした。

もちろんこんな小旅行も、私に若干の時間的余裕ができたことと、妻も年度の切り替え時で休暇を長く取れたからこそのものです。

2013年度の考古学研究会総会・研究集会

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去る4月20日と21日に岡山大学で開催された表記の学会、例年どおり参加してきました。総会では、会員減が止まらない状況への打開策として、大幅な緊縮財政を打ち出すことが提案されました。一時は5000人を越えた会員数も、今は3000人台半ば。毎年100名以上の減がつづいています。こうした危機感を前に議論は予想以上に白熱し、会場はのっけから緊張感に包まれました。

今年はかつて考古学研究会の運営の中枢にいらっしゃった春成秀爾・小野昭両先生がお越しでしたので、御両名から厳しい質問が矢継ぎ早に出され、庶務委員長の大久保徹也さんが終始答弁に追われる展開。応答の様子を聞けば、現常任委員会が現在の事態に決して手をこまねいているのではないことを参加者に印象づけることになった、とは思います。大久保さんには心から「お疲れ様」と申しあげます。

ただし学会の根幹は魅力的な会誌であることも間違いなく、春成先生のおっしゃるとおり、読み応えのある会誌を今後とも刊行し続けることが、やはり肝要だと私も考えます。この点に関し、この2年間の震災特集は、本会の魅力をアピールすることになった企画であったと思います。同様に論文の方も、読みやすく充実したものにさせたいと思う次第です。なお最新号に掲載された拙著「東の山と西の古墳」への反応については次の記事で紹介したいと思います。

さて20日の小野昭先生の講演「現代社会と考古学の交差」は、先生の語調や、登場する用語も引き合いに出される実例も含め、確かに30年前に受けた授業もこんな感じだったなあ、と非常に懐かしく思わせるものでした。my historyかyour historyか、the historyか、との問にどう向き合うべきかという設問に対し、小野先生らしく一直線で取り組む姿勢を前面に打ち出された講演だった、ともいえるでしょう。2008年には先生から誘われ「歴史は誰のものか」と題するシンポジウムに招かれたときのことを思い出しつつ、です。

あのとき、私は設定された共通テーマの方向性をひねり「歴史は農耕民の専有物である」との報告を行いました。その成果は『メトロポリタン史学』第7号に「歴史を領有する農耕民」と題し掲載されています。パネラーのひとりとしての私が、他の面々からいかに浮いていたかを如実に示すものです。とはいえ時制を現在に置くと、設問はとても難解になってしまうので、あのようにせざるをえなかったし、当時は歴史が与件であるという私たちの感覚自体を相対化できないか、との思索に浸っていたものですから、その素直な思いを表明してみたのです。あのときの小野先生の困った表情をひとり思い出していました。

次の斎野裕彦さんによる「自然災害と考古学」と題する報告は、地道で着実な実践に裏付けられているだけに、聞き応えのある見事なものでした。学問的にも行政手腕についても「やり手」という形容は斎野さんのためにある、といっても過言ではないように思います。逐一納得させられる内容でしたし、今後の埋蔵文化財調査の指標として学ぶべき点は多いと思いました。

翌21日の坂井秀弥さんの報告は、文化庁の主任調査官を経験された当事者ならでは、の説得力に満ちたものでした。実体験に裏打ちされた報告だからこそ醸し出される言葉の重みなのでしょう。小野先生と同様、パワーポイントなどを使用しない、言葉と表情に依拠した講演でしたが、そのトラッドさが逆にダンディーさを誘うのでしょう。恥ずかしながらエンターティナーを志向する私には、そのような自信はありません。

つづく吉井秀夫さんの「朝鮮古蹟調査事業と『日本』考古学」には、大いに学ばされました。吉井さんには同成社の『古墳時代の考古学』第7巻でもお世話になりましたが、日本の植民地時代を経た朝鮮半島の人々にとっての考古学史が、いかに重い問いかけを伴うものであるかを紹介されただけでなく、日本考古学界にとっても、あのときの経験値がその後に与えた影響には多大なものがあることを主張され、逐一納得させられた次第です。

私は午後から倉敷考古館にお邪魔しなければならなくなったので、吉井さんの報告を最後に会場から抜け出しました。ですから、その後の方々の報告は聞けていません。ただし今回の総会報告は、私にとって学ぶところ大でした。

入り口で大久保さんと代表委員の岸本道昭さん、それに編集委員長の山本悦世さんにご挨拶して会場を離れました。その場での会話の中身も次の記事で紹介します。

ポスターセッションには松本建速さんや、松本研の院生である寶満君も参加しており、東海大学からの積極的な参画を実感させられるものでした。

それはそうと、今年の気候はどうなっているのでしょう。冬に戻ったかのような、風の冷たい岡山でした。

さんざんな「話題作」

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先にアップした考古学研究会総会の初日に行われた懇親会の席上、幾人かの方から、私の近著「東の山と西の古墳」に対するコメントを頂戴しました。それが散々な“評判”でした。悪評に包まれている、といった方が正確なところのようです。

大阪市立大学の岸本直文君からは「読みましたよ…!」だけ。後は微笑みで終わり。先の記事で紹介した仙台市の斎野さんからは「10年前のH君はもっとさわやかな印象だったのに、今回の論文には清涼感がない!年配者が書くようなテーマで魅力に欠ける。それよりも沖縄の話の方が面白いから、そちらの方を早くまとめてよ!」との厳しいご指摘。この「年配者」云々の一見奇妙にも響くコメントは、2005年に刊行された『縄文ランドスケープ』が下地になっているからだと受け止められます。天体の運行と縄文遺跡の位置関係を点検した著作で、関東・東北在住の研究者にはなじみ深いはずだからです。その著作に対する学界の大筋での評価を布石にしたコメントであることは、容易に推察されました。沖縄については、ごもっとも、としか言いようがありません。

痛いところを突かれましたが、このように頂戴したコメントのほとんどは悪評でした。岡山大学の新納泉さんも、意味深な微笑みを私に向けるだけだったし。いっぽう長くNHK解説員を務められた瀬戸内港町文化研究所の毛利和雄さんからは「今回の論文は『季刊考古学』とを併読してみれば、Hさんの主張の概要を理解できるでしょう。しかし東遷説のにおわせなど、定説とは異なる多くの含意や仕掛けが眼につきます。ですから国家論を含めた体系的な議論に早めにもってゆかないと、現状のままでは誤解を生みかねない危うさを伴っていますよ」との趣旨の、真に丁寧なご忠告と励ましのお言葉を賜りました。ご指摘のとおりかもしれません。

ただし奈良文化財研究所の石村智君からは「私もこのテーマには興味を抱きます」との、彼ならではのニュートラルで旗幟を控えたコメント。大阪文化財センターの井上智博君からだけ「今回の論文は面白かったです!非常勤をやっている大学の次回の授業で使わせていただきます」との高評価が与えられました。唯一の慰めです。しかし井上君は岡大の後輩ですから、身内贔屓の気配がないとはいえません。

そして最悪だったのは2次会での会話。K大学のS君からは「Hさんの論文を、ここで話題にしてよいものか、今まで迷いに迷いました」で始まり「今回の論文を『考古学研究』はよう載せたな、と心底驚きましたよ」で終わる辛辣なコメント。別のK大学のS君にいたっては「こんなHさんだけの妄想を…よう、そのまま書くわ!それに『始祖霊の住み処』なんて用語、普通の感覚では絶対に使用しないでしょうが!」との捨て台詞。身近な後輩諸君ならでは、の歯に衣着せぬ批判でしたが、大方の雰囲気を代弁してくれたのかもしれません。なお前出のS君からは、中沢新一氏が私の主張と関連する議論を展開しているとの貴重な情報を教えられましたし、後出のS君とも学生時代からの因縁ですが、終始和やかな雰囲気であったことを申し添えます。台詞の紹介だけだと、凄まじい雰囲気だったかに誤解されかねないようです。

さらに岡山県教委の宇垣匡雅さんからも、目立つ誤変換を指摘され「緊張感をもって読んだのに、これでは台無しだろうが」との厳しいご指摘。この点については弁明のしようもなく、誠に申し訳なく思います。次号での訂正を依頼します。

加えて翌日、会場を辞す直前に前夜の話題を振ってみところ、岸本道昭さんのもとには、「なぜあのような論文を掲載したのか」という問い合わせ、苦情、重大な疑念が刊行直後から寄せられていることを知りました。なかには「これ、考古学の論文なの?」との根源的な疑念の声さえあったそうです。大久保徹也さんにいたっては「あなたに今更何を言っても聞かないだろうし…」との諦め口調。山本悦世さんからも「だから方法論をもっと丁寧に説明しないと…」とのご忠告を受けました。でも20頁に収めつつ主張内容を展開するためには相当圧縮しないとしょうがなかったのです。

ところで、この場を借りて事実関係を弁明しておきます。拙著が『考古学研究』に掲載されたのは、私が2012年度まで長らく常任委員であったがゆえ、ではありません。身内贔屓では決してなく、むしろ常任委員からの投稿原稿だからこそ、慎重に慎重を期しての査読を経ましたし、掲載に関わる審議も(私はそのとき退席させられた形で)厳正に行われたはずの、その結果です。

常任委員からの投稿論文であっても、手続きは他の投稿論文とまったく同列に扱われ、複数の査読者(もちろん、査読者が誰か私は知りません)の判断に依拠しつつ、平均10ヶ月をかけて採否が決せられているのです。今回の拙文についても9ヶ月でした。こうしたプロセスの公正さには、特に気をつかっています。このことだけは是非とも申しあげておかねばなりません。

さらに複数誌での査読経験からいえば、査読者からの評価は4段階程度に分かれます。最上位は「即掲載可」、最下位は「返却が妥当」であり、中間に「要修正」が程度に応じてはさまります。双方の査読者の評価が揃っていれば査読を完了し、評価値が大きく異なる場合には第3の査読者を立てて再度評価を依頼することになります。編集担当の委員のなかからも専門分野の近い研究者が熟読します。査読者や熟読者は、当然投稿論文の本文内で示された先行研究や、著者の関連文献に逐一当たります。

特に論拠となる重要な部分については、相当入念に点検します。その上での評価ですから、査読というのは非常に疲れる作業ですし、加重な負担となります。こうした査読を終え、著者からの再提出を受けるという手続きなのです。

そのうえで、考古学研究会の場合には常任委員会の審議を経て最終結論が出されるのです。この間の手続きに要する時間が、上記の平均10ヶ月となるわけです。私の場合にどのような経過を経たのかについて、もちろん委細は知らされていません。査読者からの修正要望意見や、編集委員会からの要点検事項が細かく知らされたうえで、私から再度原稿を提出し、受理されました。

そのことから推測しますと、私の投稿論文については、最上位から2番目の評価というところで一致した可能性があるものと推察されるにとどまります。拙著の末尾に記された「2012年11月10日受理」との記載は、査読から微調整、再提出を経て、最終的に常任委員会で「掲載可」との結論が出た日付です。このような経緯であることを改めて記しておきます。

ですから、この間の経緯を別の側面からみれば、常任委員会や編集委員会の裁量権が、じつはあまり発動できないシステムであるともいえるでしょう。ようするに査読を通ってしまえば、編集委員会はもとより常任委員会で、その査読結果を覆すことなど不可能に近いといえるのです。

さて本題に戻しましょう。岸本さんからは「Hさんも当然厳しい反論を予想されているでしょうから、論争が誌上で活発になれば、それは会としても歓迎すべきことです」との、さすが代表委員ならでは、のコメントをいただきました。しかし即座に大久保さんから「でも論争は紳士的かつ生産的な方向でよろしく!」との補足が入りました。旧友というのは、これだから困ります。ともかく今後誌上での論争が展開されるのであれば、私にとっても大歓迎です。

そのような次第で、本ブログの読者のみなさまのなかに、拙著への反論執筆を希望なさる方や、今後繰り広げられるであろうと予期される論争に関心をお持ちの方がいらっしゃれば、さらにそうお思いの方の中に、まだ考古学研究会に入会なさっていない方がいらっしゃれば、是非入会をお願いします。

私もすでに常任委員ではなく一会員ですし、論争は本誌上で繰り広げられることになりますから。考古学に興味のある方であれば、「専門家」でなくとも自由に入退会可能な考古学研究会です。前身は「私たちの考古学」。敷居を取り払いつつ、学術水準を高度なところに維持したいと願いつつ運営されている学術団体です。委細は同会のHPなどでご確認ください。

そして学生の皆さんには、在学中だけでも構いません。入会を強くお勧めします。年会費3,200円で4冊が自宅に届くのですから、出費は比較的安いはずですし、なによりも今回の私のケースと同じく論文や研究ノート、さらには展望記事、会員通信などへの投稿権が手に入るのです。今年の松本建速さんや寶満君のように、ポスターセッションへの参画権も自動的に与えられます。

そうした参画権をもつ、あるいはそのような権限を保持しつつ会誌を読む、という日常生活、それが専門家への第一歩でもあるのですが、そのような生活を一度体験してみてはいかがでしょうか。もちろん投稿論文には査読というハードルがあります。そのハードルは決して低くはないものと思います。しかしみなさんの卒論や修論を『考古学研究』誌に投稿する権限も与えられるのですから、チャレンジしない手はありません。ネット上で発信される「言葉」と活字とでは、実感において次元の異なる意味をもつことを体験していただきたく思うのです。

もちろん、みなさんの大学で『考古学研究』は、ほぼ例外なく定期購読されている学術誌のひとつでしょう。ですから大学に出向いて関心のある記事だけを拾い読みすることも可能です。私の勤務校でもそのような環境を整えています。

しかし現在は、そうした環境が今後保証されないかもしれない、危機的な情勢へと着実に向かいつつあることも事実です。会費収入によって刊行が支えられている学会誌ですから、会員数の減少が下げ止まらないことには、会誌の刊行が危ぶまれる事態になるのです。会費の値上げになることは是非とも避けなければなりません。最悪の負のスパイラルに陥ってしまいます。ですからこの際、喜捨という意味でも構いません。今持ち直さなければ、今後が本当に危ういのです。

そのようなわけで、さんざんな悪評のもとにある拙著「話題作」を起点に、これから予期される論争の展開が、会員の増加につながればなによりかと思います。

ちなみに最上段の写真は西山古墳の前方部から後方部を見たところ、中段は「南の中心軸線」の起点であると私が考える百舌鳥古墳群中の石津ヶ丘古墳(履中陵)、下段の2枚は北緯34度33分17.2秒ラインの現状を写したものです。

関東でのガラス関連資料調査

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記事のアップが前後しましたが、先週末の18日には、大賀克彦君と奈文研の田村朋美さんが東海大学を訪問されました。古代エジプト関連の本学所蔵となった鈴木コレクション、古代ガラスの下見調査です。

あいにく山花京子先生が外国出張で不在でしたので、代わりに私が対応しました。田村さんは大賀君の「むすめ」の一人だといわれるだけあって、二人の連携は見事。大賀君の指示のもと、テキパキと資料点検を半日かけて進めてくれました。しかし膨大な資料でしたので、チェックが終わったのは午後7時前となりました。

写真の最上段が、そのときの作業風景です。後半に急遽資料探索を手伝ってもらうことになった3年生のK島さんも田村さんの奥に写っています。K島さんには今後、山花先生の右腕となって本コレクションの膨大な資料の整理作業に活躍してもらわなければなりません。

そして翌19日には、埼玉県本庄市の東薬師遺跡出土のガラス小玉鋳型資料の調査に出向きました。メンバーは前日のお二人に加え、大賀君のもう一人の「むすめ」でもある藤沢市教委の斎藤あやさん、研究休暇をお取りになって韓国の公州大学校(自然科学大学)文化財保存科学科から来日中の金奎虎先生、そこに私が飛び入りで加わり、合計5名となりました。

この新発見の資料については、本庄市教委の太田博之さんから西川修一さんのところに電話連絡が入り、西川さんからの紹介で実現できたものです。今後奈文研でも分析を進めさせていただきたいとの田村さん(背後に大賀君)の希望もあって、事前の下見調査を兼ねた形で本庄市に対応していただきました。残念ながら肝心の西川さんは勤務と重なって動けないとのことで、代わりにこの1年間は自由の身である私が同行させていただくことになったという次第(西川さん、申し訳なく思いながらも、ありがとうございました)。

ご挨拶いただいた文化財保護課の課長さん(着任直後だそうです)をはじめ、調査担当であった2名の方への資料説明役は、もちろん大賀君。その脇で、私は質問者の代表役となって、ポンポン飛び出してくる学術用語の解説を逐一お願いしながら、じっくりと耳学問をさせて頂きました。2段目の写真がそのときの様子を写したものです。

こうした現物を目の前にしての耳学問は、じつに貴重でかつ有益なのです。だから飛び入りで無理矢理参加メンバーに加わらせていただきました。とはいえ、太田さんはじめ調査担当のお二人はすでに大賀君や田村さんの論文を含め、類例探索を終えておられたようでした。だから完全な素人は私一人。やや恥ずかしい思いもいたしましたが。

資料自体は再生ガラス小玉の鋳出しに使用された円盤状の鋳型と棒状の土製品です。鋳型には蜂の巣のような穴が半円形の窪みとして開けられ、中心には軸を通すため?の細く深い穴が認められます。完形品には161個の穴がありました。なお再生とは、一旦細かく砕いたガラス玉起源の粉を穴の中に詰めて熱することで再度ガラス小玉を作り直す行為を指します。もちろん中心には軸棒を通したうえで熱するのです。鋳型の現物をみると、中には鋳出しに失敗したと覚しきガラスが入ったままのものもありました。こうした失敗箇所に残されたガラスの成分分析を今後進めようというものです。

その年代については、律令期の前、というところでしょうか。出土資料中には方形の小規模竪穴式住居址出土の一括品が含まれており、土師器の完形品も認められます。なお太田さんの解説によれば、いわゆる鬼高式から真間式への移行期的様相を示しているのだそうです。出土品は完形の鋳型を含め、数が非常に多く、現在のところ日本列島で最多のレコードになるとも伺いました。太田さんの許可をえて、資料調査の様子をアップします。

この日も大賀一家と金先生は黙々と作業を進めており、その脇で時に大賀君にチャチャを入れつつ、焼成形態の想定復元図を勝手に描いてみたり、太田さんから古墳時代後半以降の様相についてさまざまなレクチャーをいただいたりと、専門家諸氏の邪魔ばかりをしていた私でした。

寒風が吹きすさぶ埼玉の春の一日を、こうして満喫できました。太田さんをはじめ本庄市の方々には、心より感謝申しあげます。

権現山51号墳の「形態不明貝製品」

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考古学研究会からの帰り道、奈良に寄り道をして、奈文研に保管されている兵庫県旧御津町(現たつの市)権現山51号墳の貝製品を再び見せていただきました。20年以上の時を隔てた再会です。写真に示したとおり、本例はゴホウラの腹面貝輪と判断して間違いないことが改めて確認できました。ようやく結論に達し、胸をなでおろしています。

本例は私が阪大の院生だった頃、発掘調査に参加させていただき、当時岡大の助手であった新納泉さんと私の二人で検出することになって、慎重に取り上げた資料です。遺存状態は悪く非常に脆弱で、既に細かな粉状になっていました。ただし3号鏡と2号鏡に挟まれるかのような位置にあった塊で、表面の一部が残る2片だけは是非とも救おうと、B72の薄い溶液をスポイトで垂らしながら周囲の砂粒をピンセットで除けて、という作業を繰り返し、ようやく取り上げることができた資料です。報告書の当該部分も私が執筆しました。

同書では「形態不明の貝製品」として、次のように報告したころです。すなわち「保存状態が極めて悪く、原形を復元できない。3号鏡の脇に遺存した部分片は2点であり、いづれも板状を呈す。1は巻貝の外唇部から螺肋にかけての破片であり、2は外唇部付近の破片である。表面には赤色顔料が塗布されている。これらは同一個体であろうと思われるが接合関係にはない。ただし調査時の所見では、これら2点を含め、薄い板状の細片が全体としては径6~7cmほどの環状に連なる状態であったことから判断すると、腕輪の可能性がある」(近藤義郎ほか1991『権現山51号墳―兵庫県揖保郡御津町―』、95・96頁)と書きました。

当時からゴホウラ製貝輪である可能性を考えてはいたのですが、1(最上段の写真)の破片の内側に部分的に残された螺肋の痕跡と、外唇部との縫合部の状態や位置関係が正確には把握できず、断定を控えたという経緯があります。ただし腹面貝輪と背面貝輪の両方の模型を作成したうえで現物と比べてみると、腹面貝輪の部分片であることをはっきりと確認できました。

なにせ丁寧な研磨が施された製品ですので、報告書の執筆当時は、自然面と加工面の識別ができなかったのです。螺肋と外唇部の縫合部を裁断するかたちで作成される貝輪ですから、細部に現れる傾斜や凹面の状況については、模型で再現してみない限り判断できません。こうした模型を作ってみて、初めて「なるほど」と納得できました。念のために背面貝輪の再現模型も持ち込んで点検してみましたが、背面貝輪にはなりえないことも併せて確認できました。

1は環体(内孔)の下端中央からやや左寄りの部分に該当します。4段目と5段面の写真をご覧いただければ、どの部分かがおわかりいただけるものと思います。最下段の写真でご確認いただける、1の裏側に認められる縫合部がミソで、斜めにとりくつ螺塔部の凹面は、上端から数えて3周目にあたります。

また2(2段目の写真)の板状の部分片についても、外唇部を除去せず板状に残す、鍬形石でいうところの「板状部」の端部にあたると考えて差し支えないようです。ただし大阪府紫金山古墳貝輪3点のような上下幅の広いものではなく、熊本県大坪貝輪や鹿児島県松ノ尾貝輪にみるような、上下幅の狭い形状を呈するものと言えます。その反面、「板状部」張り出しは紫金山貝輪3点と同じく弥生終末期の事例よりは顕著であることも確実です。3段目の写真にある模型の、当該部分の上半部を取り去った形状にもっとも近いと言えます。

ですから、現時点で判明している各地の貝輪のなかからもっとも近似する資料を選ぶとすれば、紫金山古墳の貝輪3(報告書ではローマ数字、ここでは文字化けしてしまうので算用数字を使用)になります。弥生終末期の事例との比較の中で、この「板状部」の左側への拡張傾向が顕在化するという形状変化に着目すれば、貝輪3(同上)の前に置くことも可能です。

さらに注目されるのは、1の外面に見られる、「板状部」側に向けてなだらかに作出された傾斜面です。現在のゴホウラ腹面貝輪資料のなかで、この傾斜面が認められるのは紫金山貝輪と本例のみ。他の弥生終末期前後に位置づけられる各地の資料は、この部分を研磨によって意図的に平坦面とする(大坪貝輪)か、緩慢な凸面となる、螺肋から外唇部にかけての原形状をとどめるか(竹並貝輪・松ノ尾貝輪)のどちらかなのです。

それに対し腹面貝輪の模造品として登場する鍬形石の最古段階の資料については、例外なく傾斜面になります(4段目の写真で1を模型の上に置けたのは、模型は弥生終末期の事例を意識してこの部分を平坦に仕上げたがためです。ここを斜面に仕上げたもう1点の模紫金山貝輪的な模型の上には、危なくて置けませんでした)。ですからこの部分の造作については、本例が紫金山貝輪ともども鍬形石にもっとも近い!との所見が導かれるのです。いいかえると弥生終末期から古墳前期前半までの間に、貝の螺肋部から外唇部にかけての打割法には、微妙ながらも重大な変化が生じていることを改めて確認できるのです。

そして紫金山貝輪については、古墳自体の築造年代が大賀編年の前5期(ここも本来はローマ数字)に降ることから、前2期(同上)に登場する鍬形石の祖型だとの認定にはまだ至っていないという実情があります。その点、権現山51号墳は前2期(同上)ですから、鍬形石の出現期と同時期になります。つまり本例が秋山(現橋本)美佳氏のいう「紫金山型」(京都大学2005/2007)に帰属されるという今回の新知見は、鍬形石の祖型をめぐる問題の趨勢に重大な影響を及ぼします。

ようするに祖型貝輪の最新段階に属する「紫金山型」の出現期は、前2期(同上)にまでさかのぼらせることが可能になったというわけです。

残念ながら鍬形石の「笠状部」に該当する部分片は失われてしまっていますので、決定打とまでは言えないものの、明確な根拠が入手できたものと考えます。

もちろんそうなってくると、紫金山貝輪が「伝世品」である可能性が高まります。そのうえ滋賀県雪野山古墳における石製品の組み合わせとの関係についても重要な新知見が加わります。雪野山古墳の場合、石製品は紡錘車形石製品2点と鍬形石1点、そして琴柱形石製品1点でした。権現山51号墳の場合は、紡錘車形イモガイ製貝製品1点と、ゴホウラ腹面貝輪1点の組み合わせとなります。琴柱形石製品については周知のとおり奈良盆地より東に偏るという明確な地域性をもつので捨象してよいため、権現山51号墳例と雪野山古墳例との間には、組み合わせ上の近似がある、素材が異なるだけで同じ品目構成のもとにあった、と理解することが可能です。出土位置についても興味深いものがあります。鍬形石とゴホウラ腹面貝輪は、どちらの事例においても遺骸の頭部付近右側なのです。同時期性の指標になるかもしれません。

そうはいっても今回の再確認作業、3年前から始めた再現模型作成を経なければ、確信をもって判断できなかったことも確かです。先に記した各地の関連資料に関するバックアップ情報についても、実測作業を重ねてこなかったら導けない性格のディテール情報です。ですから実測作業の積み重ねも今になって効いています。

そのうえで再現模型を作ってみて、本当に良かった!と実感できる瞬間を、幸いにもこの歳になって経験することになりました。

こうして20年越しの懸案に、ようやく結論を出すことができ、安堵した次第です。石製品オタク的な記事で誠に恐縮ながら、経験値が物を言うのは、こういう場面なのでしょう。久しぶりに「秘かな興奮」を覚えました。

5月に刊行されるはこびとなった同成社の企画『古墳時代の考古学(第4巻)』には残念ながら間に合いませんでしたが、次回はこのネタを含め、石製品に重点をおいて論文を執筆したいと考えています。特に古墳時代石製品に興味をお持ちの方で、この新知見を活用したいとお考えの方がいらっしゃれば、上記の第4巻「腕輪形石製品」の註7後半に一文挿入しましたので、それをお使いください。そこは編集者の特権を最大限に活用し、同成社に無理をお願いしています。同書のご購入についても、どうぞよろしくお願いします。

本例の再検討を薦めてくれた大賀克彦君と、今回の資料調査に対応してくださった田村朋美さんには改めて感謝します。

中年夫婦の考古学談義

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昨日、1階の居間で妻が私のブログ記事を覗いているのを見つけました。聞けば、妻の職場でも話題になっていたからだとのこと。そこで、この場面から後の夫婦の会話を再現してみます。ただし論文の投稿にいたるまでの間に折りに触れて交わした会話の内容についても、適宜組み込み加工しました。

通常はたがいに名前で呼びあっていますが、ここでは妻から私への呼びかけに対し便宜的に「あなた」としています。なお家庭での妻の言葉は半分大阪弁ですが、ここでは標準語に翻訳しています。

出演者   
夫:52歳、某私立大学考古学教師
妻:49歳、某市埋蔵文化財担当非常勤職員

妻「久しぶりにブログ見たけど、おもしろーい!」

夫「おもしろくなんかないよ。俺の危機なんだから少しは同情のそぶりぐらい見せてよ」

妻「え?…あなた、このような反応がくること、承知のうえだったんでしょう」

夫「そうはいっても、少しは好意的な反応を期待していたところもあるし」

妻「どうでもいいけど。この斎野さんてかたのコメントへの解説、あなた深読みしすぎよ」

夫「そんなことないって」

妻「そもそもこういうテーマはね! たんに老人が好むテーマだってことでしょう。だからこの人は、あ なたも老化対策が必要だって言っているのよ。先行研究がどうのって問題なんかじゃないの」

夫「そりゃそうか。メタボ対策を兼ねた山歩きだったもんな。よく歩いたよ。3回も龍王山に登って、最後は娘も連れてクルマで一緒に登ったよね。確かに健康志向だし、今回の論文は読者に山歩き健康法を勧める意味もあったりして。そんな評価はなかったけど。それにさー、確かに今回の緯度の問題は世紀の大発見だと確信したわけで、それを証明したいという斬新な発想に歳なんか関係ないだろう」

妻 「そのような発想自体、フツーのプロの研究者はしないわよ」

夫 「エエ?俺はいつだってフツーだろ?いつだって素直に物事をとらえて、虚心坦懐に真理を追究する姿勢をだな…」

妻 (夫の台詞を途中で制止して)「どの口が言うか!」

夫 「なにそれ?」

妻 「長野のお母さんが何度も嘆いていらっしゃったじゃない。あなたは子供の頃から物事をひっくりかえしにしてしか見ないって」

夫 「そうじゃなくて、物事は常に多角的に捉えないとダメだって姿勢を貫こうと…」

妻 「それを屁理屈っていうの。白に見えたものがじつは黒だって、言いくるめたりひっくりかえしたりすることが、あなたは大好きなんだもの。わたしはそうやって泣かされてきたこと覚えてる?今は馴らされちゃったけど。それに話し言葉じゃないときが危ないの」

夫 「…まあ、それはいいよ。今度の論文の題目だって、旭川の瀬川さん流にキャッチーなフレーズで行こうと、一緒に考えてもらったわけだし、そこは感謝しているから。だけど『会誌によく載せたな』は酷いよね」

妻 「S君でしょ。素直なコメントじゃない」

夫 「もう一人のSのコメントなんかもっと酷かったよ」

妻 「だってそっちのS君、あなたの屁理屈でさんざん泣かされてたじゃない、学生の頃。だから当然よ」

夫 「そういう昔の話じゃなくて、ふたりとも今は立派な学者なわけだし、考古学研究会とも深く関わっているわけだし」

妻 「あのね、『考古学研究』の読者はね、みなさん新しくても安全な知識を求めているのよ。でもあなたの論文はそうじゃなくて、読者をとても不安にさせる知識だったのよ。だからS君のような素直な反応になるのは、編集者側の見方としてよくわかるわ」

夫 「なにその安全性って?」

妻 「いままでの知識の上に安心して足し算ができる知識と、そうでない知識の違いのことよ。それまでの知識を全部白紙に戻さないと頭の中に置き場所がない知識だってあるじゃない。それは危険な知識なの!たんにその差よ。それに危険な知識でも平気で受け入れられる人って、ほんの一握りのかたがたよ、きっと。だからそういうかただけがあなたの味方なんでしょ!」

夫 「だからより多くの読者に耳を傾けてもらおうと、学史を踏まえて解説もしているし、その知識のデータベースの上にそっと置きませんかって誘っただけだから、充分に足し算の可能な知識だと思うけどな。それに安全な知識かどうかは査読を通じて保証されたわけだから、今回は安全保証マークもしっかり付いているんだってば!」

妻 「その保証マークが付いてしまったことに対してでしょ!多くの方が驚いているのは」

夫 「素直じゃないよな。そこはもっと素直に受け止めようよ」

妻 「あのね、言わせてもらいますけど。あの論文を査読させられる身になって考えてみてはいかが。きっとあなたより若い世代の、それは素直で真面目な研究者だったと思うわ。GIS考古学とか、近頃流行っている方面の。そういうお堅い研究者なら、絶対にいやでしょうがなかったはずよ。そのような性格の人があの論文に『返却』なんて判定、そう簡単にだせると思ってる?可能性がゼロじゃなかったら。査読させられた身のほうが気の毒よ!」

夫 「査読に年齢なんか関係ないだろう?データを厳密に点検して、論理が破綻しているとか事実誤認が激しいとか、学術論文ではありえないとか、そういった問題点の客観的な判断を任されただけなんだから」

妻 「わかってないわね。あなた学界でも●●●●で通っているのよ。このあいだも久しぶりに会ったかたから『ご主人、なにかとご活躍ですね』とか言われたし。『なにかと』なんて、ふつうの挨拶では絶対に入れないから。そんなあなたからの投稿論文だと知ったら、わたしなら査読、絶対にお断わりよ!」

夫 「おいおい、つれないな」

妻 「だって、足し算を前提とした知識がどうのって判定には慣れていても、いきなり新方程式だの、知識の並べ替えが必要だのって、意表を突く主張への判断を求められても無理だし。それに却下したら、誰かはわからないとしても、あなたは今後絶対に黙っていないから。屁理屈もうるさいし。だからね。そういって査読を断わったかた、いても全然不思議じゃないわ!」

夫 「だけど、じゃあなぜ査読がすんなり数ヶ月で通ったんだろうね。部分修正の要請しか来なかったし」

妻 「却下する理由を一生懸命探したけれど、結局誰も●●●●●なかっただけなんじゃないの?それにね。わたしは強制的に読まされてきたからわかるけど。今回の論文、肝心なあなた自身の根拠、すべて『学史』の側にいれちゃったでしょ。そのズルさが鼻につく人、絶対にいたと思うわ!」

夫 「確かに福永さんとか岸本さんとか大久保君とか、俺と同世代以上の研究者じゃなきゃ、あえて●●●●●なんてできなかっただろうに、公正さを期して外の若手研究者に査読を依頼した可能性もあるね。新納さんも海外出張中だったようだし。でも今の松木さんなら、むしろ面白がるかも…」

妻 「なに言ってるのよ。今のかたたち、外から見れば、みんなあなたの身内じゃない!そんな距離の近い人に査読出したら、編集委員会は●●●だって批判されるにきまっているでしょ」

夫 「なるほど。第三者に出した査読が通ってしまった以上は、常任委員会でもその結果を覆せないし。しかたなく掲載ってことになったのかな。ようするにシステムの穴をすり抜けたってことかもね」

妻 「過ぎたことはどうでもいいのよ。それより毛利さんのお言葉の方を汲むべきでしょう。それに最近の各地へのご出張で出費も多いし。お願いだからもっと稼いでね」

夫 「たしかに」

妻 「それに、あなたの記事に出てくる大学の先生たちは全員、考古学界でも特権階級の学者さんたちなの。行政の方々も役職付きでトップにいる人たちばかりじゃない。強者同士でやりあっているだけなのよ。だから弱者の立場の方の意見って、とても大事だと思うの。そのことを是非とも忘れないでね」

夫 「ごもっとも」

(以下、不定期でつづく…かも)

注:今回の記事は妻の事前チェックを受けています。伏せ字は読者のみなさまに不快感を与えないための配慮です。

倉敷考古館再訪

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ほぼ10年ぶりとなります。先週の金曜日には倉敷考古館に日帰りで出向き、備前市の鶴山丸山古墳出土の石製品実測をしてきました。旭川の瀬川さんからは「まるで水戸黄門漫遊記のようだ」と揶揄されていますが、今回は当初予定に沿った研究目的です。

対応していただいたのは間壁忠彦先生。大先輩にあたるわけですが、相変わらずお元気でなによりでした。そうはいっても、岡大生の頃に間壁先生と親しくお話をする、などという僭越なことは恐れ多くてできませんでした。当時から近藤義郎先生とのご関係も微妙だと先輩方からうかがっていましたし、こちらの面が割れると、いろいろと厳しい「教え」を賜ったという諸先輩のうわさを耳にしてもいたからです。

この土倉の内装を変えただけの由緒ある建物に収納され、木製の展示ケース越しに見る数々の考古資料には、学生の頃から秘かに何度か訪れては馴染んでいたつもりではありました。弥生後期の特殊器台やら金蔵山古墳の埴輪、それに膨大な副葬品やらと、かなりメジャーな考古資料を間近に見学できる場所でもあったからです。ちなみに秘かに、というのは、岡大生のしかも考古学専攻生などということが間壁ご夫妻に知られることのないように、という意味です。

しかし10年前に金蔵山古墳の石製品のひとつが環頭形石製品であることを突き止め、忠彦先生にその旨をお話ししながら実測をさせていただいたことがご縁となり、ようやくふつうの会話をさせていただけるようになりました。陳列ケース内では、件の石製品に、いつしか粘土で私の復元案どおりの造形が施され、全形が再現されていました。感謝です。

しかし幾度となく訪れたはずでもそ細かく記憶している資料というものは意外と少ないもので、やはり実測して初めて身体に覚え込ませることができるようです。

今回の資料調査を経て、ようやく金蔵山古墳と鶴山丸山古墳の主要な石製品を実測し終えました。同成社に連絡を入れてみたところ、まだ間に合うということでしたので、私の原稿「腕輪形石製品」の付表のなかに、今回の調査結果を入れてもらうことができそうです。

実測の他になにをしてきたのか、といえば、肉眼観察による産地推定です。大賀君との対話を重ねながら玉に準じた指標がほぼ明確になりましたので、今後は意識的にこうした作業を積み重ねようとの目論みです。

しかしこのような岡山への日帰り資料調査も、気持ちと時間に余裕がなければできません。こういうときにサバティカルの有難味を実感させられます。

伊豆半島の西岸部めぐり

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昨日まで一泊二日の旅程を組んで、妻と伊豆半島にでかけてきました。幸い好天にも恵まれて良いドライブ小旅行となりました。我が家なりのディスカバー東海です。

一日目は三島大社参拝から始まり、三島の街路を散策したのち、松崎町雲見温泉までを中伊豆経由でドライブしました。

三島って、じつはほとんど縁のなかった街でしたので、様子をまったく知らずにいましたが、実際に訪れてみると、そこは清流がいたるところに流れる清涼感に包まれた街路。良い雰囲気の街の様子に少し感動を覚えました。こういう雰囲気の街なら、絶対に住んでみたいと思うはずです。ところで、うなぎ屋が目立つのはともかく、なぜか三島界隈には蕎麦屋も数多く、結局昼は蕎麦。

その後は中伊豆を通って南下し、松崎町雲見温泉までのドライブ。そこに林立する民宿のひとつに宿泊しました。行くまで二人とも知らなかったのですが、この漁村が母体となって発達したとおぼしき温泉民宿街は、ごく最近放映されたTVドラマ「とんび」のロケ地でもあったとのことで、確かに三島とはまた異なった、昭和の趣に包まれていました。

おだやかな夕方の浜辺散策に向かう妻を尻目に、私はいきなり布団を引っぱり出してしばし熟睡。というのも前夜は朝の3時半頃まで、次回の「西相模考古」特集号に載せてもらうための原稿を書いていたからです。初稿ができあがったので、ひと安心して出かけて来たのですが、やはり襲い来る睡魔には勝てませんでした。

目を醒ました後の夕食は、もちろん魚三昧のご馳走。今回はイサキの舟盛りがメインでした。なぜか中瓶一本で酔ってしまうという我が身の効率の良さもに驚きましたが、もう一つ驚かされたのは宿の温泉。塩辛いのです。

翌朝は烏帽子山という、火山の根でできた山を目指したものの、中腹の雲見浅間神社の拝殿まで登ったところ、あと300段の階段を登る、と知って断念しました。下から3段目の写真が烏帽子山の全景です。なんと、かのイワナガヒメが祭られているのです。北に仰ぎ見る富士山はコノハナサクヤビメですから、この南北の対称性が印象的でした。

帰り道は今度は海岸沿いを北上することにし、途中で松崎に立ち寄って再び街中を散策したのちは、点在する漁村や農村を見ながら沼津市までの道中をゆっくりと走りました。途中での会話はもっぱら集落の立地と生業パターンの話。最近は私も妻の影響か、安室知氏などの民俗学の本を読む機会が増えてきていますので、「おお!ここは百姓漁師の村だ」などと感動してみたり、かつての竹中直人監督・主演の映画「119」の舞台を重ね合わせ聖地探訪をもくろんでみたり、と、他愛もないドライブを楽しみました。

その後は沼津御用邸の跡地に建つ同市歴史民俗博物館を見学し、さらに沼津界隈の地形などを確かめつつ、連休前半の最終日ですから、東名が混む前に、と帰宅しました。沼津インターから自宅までの所用時間は1時間ですから、近場ではあるものの、とにかく連休中は鬼門です。

じつのところ、妻は妻でこの博物館の図録が所望だったのと、私はとにかく駿河湾の付け根界隈の地形がどのような雰囲気なのかを確かめたかった、というのが今回の小旅行への背中を押した、それぞれの思惑でした。

前夜(当日の早朝)に仕上げた原稿は、まさしく沼津市高尾山古墳に関するちょっとした発見を論じたものだったからです。調査中にも2度お訪ねしましたが、この古墳を対象とした論文を仕上げてみると、やはり親近感が湧くものです。
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