去る4月20日と21日に岡山大学で開催された表記の学会、例年どおり参加してきました。総会では、会員減が止まらない状況への打開策として、大幅な緊縮財政を打ち出すことが提案されました。一時は5000人を越えた会員数も、今は3000人台半ば。毎年100名以上の減がつづいています。こうした危機感を前に議論は予想以上に白熱し、会場はのっけから緊張感に包まれました。
今年はかつて考古学研究会の運営の中枢にいらっしゃった春成秀爾・小野昭両先生がお越しでしたので、御両名から厳しい質問が矢継ぎ早に出され、庶務委員長の大久保徹也さんが終始答弁に追われる展開。応答の様子を聞けば、現常任委員会が現在の事態に決して手をこまねいているのではないことを参加者に印象づけることになった、とは思います。大久保さんには心から「お疲れ様」と申しあげます。
ただし学会の根幹は魅力的な会誌であることも間違いなく、春成先生のおっしゃるとおり、読み応えのある会誌を今後とも刊行し続けることが、やはり肝要だと私も考えます。この点に関し、この2年間の震災特集は、本会の魅力をアピールすることになった企画であったと思います。同様に論文の方も、読みやすく充実したものにさせたいと思う次第です。なお最新号に掲載された拙著「東の山と西の古墳」への反応については次の記事で紹介したいと思います。
さて20日の小野昭先生の講演「現代社会と考古学の交差」は、先生の語調や、登場する用語も引き合いに出される実例も含め、確かに30年前に受けた授業もこんな感じだったなあ、と非常に懐かしく思わせるものでした。my historyかyour historyか、the historyか、との問にどう向き合うべきかという設問に対し、小野先生らしく一直線で取り組む姿勢を前面に打ち出された講演だった、ともいえるでしょう。2008年には先生から誘われ「歴史は誰のものか」と題するシンポジウムに招かれたときのことを思い出しつつ、です。
あのとき、私は設定された共通テーマの方向性をひねり「歴史は農耕民の専有物である」との報告を行いました。その成果は『メトロポリタン史学』第7号に「歴史を領有する農耕民」と題し掲載されています。パネラーのひとりとしての私が、他の面々からいかに浮いていたかを如実に示すものです。とはいえ時制を現在に置くと、設問はとても難解になってしまうので、あのようにせざるをえなかったし、当時は歴史が与件であるという私たちの感覚自体を相対化できないか、との思索に浸っていたものですから、その素直な思いを表明してみたのです。あのときの小野先生の困った表情をひとり思い出していました。
次の斎野裕彦さんによる「自然災害と考古学」と題する報告は、地道で着実な実践に裏付けられているだけに、聞き応えのある見事なものでした。学問的にも行政手腕についても「やり手」という形容は斎野さんのためにある、といっても過言ではないように思います。逐一納得させられる内容でしたし、今後の埋蔵文化財調査の指標として学ぶべき点は多いと思いました。
翌21日の坂井秀弥さんの報告は、文化庁の主任調査官を経験された当事者ならでは、の説得力に満ちたものでした。実体験に裏打ちされた報告だからこそ醸し出される言葉の重みなのでしょう。小野先生と同様、パワーポイントなどを使用しない、言葉と表情に依拠した講演でしたが、そのトラッドさが逆にダンディーさを誘うのでしょう。恥ずかしながらエンターティナーを志向する私には、そのような自信はありません。
つづく吉井秀夫さんの「朝鮮古蹟調査事業と『日本』考古学」には、大いに学ばされました。吉井さんには同成社の『古墳時代の考古学』第7巻でもお世話になりましたが、日本の植民地時代を経た朝鮮半島の人々にとっての考古学史が、いかに重い問いかけを伴うものであるかを紹介されただけでなく、日本考古学界にとっても、あのときの経験値がその後に与えた影響には多大なものがあることを主張され、逐一納得させられた次第です。
私は午後から倉敷考古館にお邪魔しなければならなくなったので、吉井さんの報告を最後に会場から抜け出しました。ですから、その後の方々の報告は聞けていません。ただし今回の総会報告は、私にとって学ぶところ大でした。
入り口で大久保さんと代表委員の岸本道昭さん、それに編集委員長の山本悦世さんにご挨拶して会場を離れました。その場での会話の中身も次の記事で紹介します。
ポスターセッションには松本建速さんや、松本研の院生である寶満君も参加しており、東海大学からの積極的な参画を実感させられるものでした。
それはそうと、今年の気候はどうなっているのでしょう。冬に戻ったかのような、風の冷たい岡山でした。